手柄山正繁は十八世紀末の播磨の刀工で、大坂の濤瀾乱を新々刀の復古に伝えた工であり、その年紀作は寛政年間に始まり、江戸駿河台で鍛えた作に及ぶ。姫路の手柄山一派に属し、初代大和大掾藤原氏繁の末流で、手柄山の麓に住したことから代々これを姓とした。説明書は、三代氏繁の弟で、初め氏繁と銘して四代を継ぎ、のちに正繁と改めたとし、通称を朝七、号を丹霞斎という。天明八年の冬、奥州白河の藩主楽翁松平定信の抱え鍛冶となって江戸に移り、神田駿河台に住した。茎に繰り返し「奥州白川臣」と切るのはこの主従のゆえで、生国播磨ではなく主君の北国の領地を名のる。享和三年に甲斐守を受領し、藩公から「神妙」の二字を賜り、会心の作にのみこれを切ったという。
その手は、津田越前守助広に私淑して学んだ濤瀾乱であり、説明書はこれを最も得意とした作風とする。刃文の記述に濤瀾を挙げるのは指定作十三口のうち六口で、さらに三口を説明書が濤瀾の典型作と読み、ほかは彼がまた能くした穏やかな刃を焼く。身幅広く反り浅く中鋒の延びる姿に、元を直ぐの焼出しに始め、その上に大互の目を濤瀾の波のように高く焼く。説明書はその手を「津田助広の作風に私淑して」、「濤瀾乱を最も得意としており」と記す。大坂の手本をただ写すのと異なるのは乱れの形の整いであり、会心の作について説明書は「大互の目を主調とした乱れの形はくずれることなく整然と」焼かれ、小沸がむらなく厚くつき、地刃共に明るく冴えるとする。
その大互の目の刃には尖りごころの刃が交り、説明書はこれを偶然ではなく同工の特徴とし、ある刀について「尖りごころの刃が交じっているが、これは同工の特色である」と記す。処々には矢筈風の刃も入り、「矢筈風の刃が交り」というある脇指では、説明書はこれを「言之進照包を意識したもの」と読み、彼の濤瀾を助広一者の手本を越えて広げる。帽子は直ぐに小丸となり、時に掃きかけを伴って返りを長く焼き、最も働きのある作では刃縁に飛焼・湯走り・棟焼が集まり、説明書はこれを「打ち寄せる波濤」に喩える。
地鉄はよくつんだ小板目に地沸厚くつき、処々無地風の静かな肌に落ち着き、最もよいものは地沸微塵につき鉄が冴える。濤瀾のほかに説明書は、いま一つ彼自身の作風として、焼幅の広い浅いのたれを挙げ、匂深く小沸よくつくとする。これは大小や数口の脇指に見る手で、寛政七年紀の大小について説明書は、浅いのたれに大小の出来がよく揃うと記す。説明書はまた、江戸で「水心子正秀に学んだ」と伝え、その作は助広以来の大坂の継承と、同時代の江戸の新々刀の学びとを兼ねる。龍・梵字・三鈷柄剣などの彫物をみずから施し、第七十回指定の脇指は茎に彫も同作と記して、説明書はその資料的価値を高いとする。文政の初め頃には一時大坂でも鍛刀し、のちに江戸へ戻った。
その見どころは、彼が私淑した大坂の手本に照らしてよく読める。助広の濤瀾が創始の型であるのに対し、正繁のそれは、元を開く直ぐの焼出しと、波頭に交える尖り刃・矢筈風の刃、そして大互の目の形をくずさぬ整いで見分けられる。彼は姫路の手柄山一家に立ち、三代氏繁の弟として、その名を白河の大名の抱え工として伝えた工であり、説明書は助広の濤瀾に倣うその作風を上手とする。その作は銘文によっても分かたれ、年紀のみならず武陽駿台の作刀地、時には鉄そのものを記し、石州出羽鉄を以て鍛えた一刀は、説明書が固山宗次の例に比して好資料とする。
正繁は藤代に上々作とされ、新々刀の上手の工であり、指定は重要刀剣十三口で、これが彼の指定のすべてである。その作は個人の収集家が現実に出会いうる種類の刀で、多くは長く伝えられて記録の乏しい手にある。伝来はわずかだが具体的で、一口の脇指は古河藩士小杉為長の注文によるもので、裏に長短の用を説く古諺と所持者の銘を刻む。彼の刀が市場に出るのは折にふれてのことであり、銘と年紀を具え自作の彫を伴う一口、あるいは会心の作に切った「神妙」の二字を負う一口は、現れたとき一層注目に値する。新々刀の復古の濤瀾を、大名の抱え工の手で求める収集家にとって、正繁は確かな名の一つであり、匂深く明るく冴える匂口は、説明書が上手と呼ぶその手の変わらぬしるしである。