正応二年(一二八九)八月、畠田真守は太刀に「備前国長船住人左馬允真守造」と長銘を切り、四ツ目菱紋とこの工には珍しい制作年紀を添えた。建治・弘安・正応(一二七五~九三)の年紀作が現存し、説明書は「その活躍期は明白である」と記す。真守は畠田守家の子と伝え、弟子あるいは孫とする説、一説に初代家助の子とする伝もあり、師守家の代作者の一人であったために自身の在銘作が少ないとも説かれる。一門は長船に隣接する畠田に住したが、「畠田住と銘したものは皆無」で、銘はみな長船住と切ることから、畠田は長船村内の小字と考えられている。年紀作はちょうど長船長光の活躍年代に重なり、父守家の華やかさと長船本流の穏やかさとの間に立つこの位置こそ、同工をめぐる記述の軸となっている。
作風の典型は、腰のくびれた蛙子丁子を交えた丁子乱れである。畠田派はこの「蛙子丁子を得意として上手」と評され、真守もその見どころをよく受け継ぐが、父と分かつのは乱れの規模である。指定書に繰り返し現れる定型の評は「守家に比して、一般に乱れがやや小模様となる傾向がある」というもので、乱れの房が一段小さく、焼の高低も目立たない。蛙子丁子は指裏に殊に顕著となる例が多い。丁子には互の目・尖り刃が交じり、足・葉がさかんに入り、匂勝ちに小沸がつき、匂口は明るいと繰り返し記される。金筋・砂流しがかかり、処々に小さな飛焼を交え、帽子は乱れ込みまたは直ぐに小丸となり、先が尖りごころに掃きかけるものが多い。
地鉄に畠田の見どころがある。板目に杢を交えて肌立ちごころとなる鍛えに、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに入り、乱れ映りが鮮やかに立つ。正応年紀の太刀では、その映りが地斑映り状を呈する。肌立ちは守家ほど強くなく、しかし長船物よりは強い。上作が長船に紛れるとき、説明書が指摘するのはまさにこの点である。肌立つ鍛えの一方、小板目のよくつんだ精緻な肌合の一類もあり、伊予西条松平家伝来の一口は「同工極めの白眉」と評される。姿の上でも、長船の光忠等に比して鋒が延びる点が同派の見どころとされ、太刀は腰反り高く踏張りのある体配を保つ。
説明書は作域を、華やかな丁子乱れ、互の目に丁子の交じるもの、直刃調のものの三様に挙げ、総じて父守家より穏やかな出来が多いとする。銘もこの分かれに沿う。多くは二字銘で、「銘に太字のものと小振りのものとの二様があり」、太字は守家に似た華やかな作に、小振りは「概して長光、景光に近い」作に結び付く。本間順治は経眼中最も大銘で乱れも最も華やかな太刀を「初代作に相違ない」と断じた。官職を冠した長銘は稀で、左馬允と右馬允の両様があり、右馬允銘の太刀は中直刃が浅くのたれ、現存稀な在銘の剣は小沸出来の細直刃に焼詰め帽子となる。銘の二様の背後には「同銘は二代あったと考えられるが、銘字による代別は目下のところ困難である」という問題が横たわる。同名の刀工は平安時代の伯耆大原、鎌倉時代の備中青江派にも存するが、「銘振り、作風にそれぞれ相違のあることは勿論である」と注記される。
上作において問われるのは、もはや父ではなく長船そのものである。正応二年紀の太刀は「一見長光の上作を思わせる」とされ、肌立ち気味の地鉄にのみ畠田系らしさが窺われる。格付けについて説明書は率直で、「総体に守家に及ばず、特に帽子がそうである」と記す。しかしこの率直さは裏から読めば、父に及ばぬとされる小模様で穏やかな乱れこそ、静かな作を長船の上手に近づける当のものである。無銘極めは同工自身の組合せ、すなわち蛙子丁子を交えた丁子乱れ、肌立ちごころの板目、鮮やかな乱れ映り、守家より一段小さい乱れに拠っており、特別重要の一口では茎の形状が「現存する真守の有銘作に酷似している」ことが極めの決め手となった。在銘の太刀は比較的少なく、「短刀は未見」とされる。
藤代の格付けは上々作。指定を受けた作は五七口を数える。国宝はないが、重要文化財が六口あって安芸浅野家伝来の作を含み、戦前の重要美術品が五口、黒田長礼・黒川福三郎ら蒐集家の手を経た。特別重要刀剣五口・重要刀剣四一口、両指定で四六口に上る。伝来も顕著で、紀州徳川家・薩摩島津家・伊予西条松平家のほか、毛利家・黒田家・前田家に伝わった。所在の知られるものは九州国立博物館・林原美術館・黒川古文化研究所などに収まる。蒐集家にとっては、長船の大名跡ほど遠い存在ではないが、なお忍耐を要する刀工である。市中に現れるものの多くは大磨上無銘の極め物で、その極めは小模様の蛙子丁子に拠っており、時折市場に姿を見せる。在銘はまた別である。二字銘の太刀は少なく、長銘・年紀の作はさらに稀で、ひとたび出れば、居住地と官職と年紀を作者自身の手に伝える資料として出色の出来事となる。