畠田の守長には年紀の確かな作が一口あり、表に備州長船住守長、裏に正平十二年(一三五七)五月の銘を刻む短刀で、この年紀が本工を備前の南北朝の代に定める。剣書は本工を長船畠田派に置き、守重の子とし、一説に長船村に隣接して鍛えた畠田の名工二代守家の孫とも伝える。同名二代を立てて初代を正中の頃、二代を正平に置き、この短刀は二代と読まれる。銘は備州長船住守長と長銘に切り、在銘の作は少ない。長巻直しの太刀について説明書は、在銘の守長としては「守長の在銘のものは他に比類がない」と明記する。
説明書がまず挙げるのは備前の特色ではない。本工の刃は沸の盛んについた覇気ある乱れで、説明書はこれを「一見備前物とは思われない盛んな乱」と評する。文様はのたれを主に互の目を交えた乱れで、丁子は長船本流のように主調とはならず僅かに交じるに留まり、その上に沸が厚くつき、砂流し頻りにかかり、金筋が刃に入る。長寸の一口には荒めの沸が交じり僅かに湯走りがかかり、年紀の短刀では刃が濡れて処々二重刃ごころとなる。帽子も同じ覇気をもって乱れ込み、掃きかけて焼詰め、短刀では突き上げて尖り長く返る。本工を位置づけるとき説明書が頼むのは、この沸づいた相州風の乱れであって、丁子乱れではない。
地鉄が見どころの後半をなす。本工は流れてやや肌立つ板目、しばしば大板目を鍛え、長船の名手のつんだ小板目のように締まらず、肌立つ地に地沸がつく。薙刀直しの脇指では淡き映りが地に立ち、相州風の手の中に古備前の明るい映りが残り、開いて流れる地が、厚い刃沸と流れる砂流しを読む地となる。長船の丁子乱れがつんだ冴えた地に乱れ映りを立てようとするのに対し、守長はより働きのある鉄を求め、説明書は地刃ともに健全とし、沸のよくついたことを「所謂相伝備前の作風である」と記す。
本工の現存作は時代よりも造込みによって分かれる。年紀のある作はいずれも南北朝の幅に収まるからである。現存する在銘作の多くは長巻直しで、長巻を太刀・脇指に直したもので、鎬造あるいは菖蒲造に重ねを卸し、反り浅く鋒は大鋒となり、茎尻寄りの棟側に長銘を切る。これが幾口も揃うことから、説明書は「長巻が得意であったのかも知れない」と推し、現存作が多くないため作風の特色を詳細には言い得ぬと加える。これに対して正平十二年の生ぶ短刀は平造に三ッ棟、中央目釘孔にかけて長銘を切り裏に年紀があり、表に護摩箸を彫る上手の作で、その年紀を説明書は好資料とする。
説明書が比較を求めるとき、その手は長船には向かわない。年紀の短刀は「一見長義などの作に通じ」と読まれ、長義は自らも相州風に転じた南北朝の備前の名工であり、別の一口は作そのものからこの繋がりを見て長義一派との縁を認める。長寸の一口はこの比較をさらに進め、掃きかけて尖る帽子から左の一類に近いとされる。左は相伝備前の中核をなす南北朝主流の筑前の系である。それゆえ守長を分かつものは、他派から借りた特徴ではなく本工自身の地刃に語られる。肌立って流れる板目、地刃をともに覆う沸、のたれ・互の目の乱れを貫く砂流しと金筋、焼詰めに納まる掃きかけの帽子こそ、説明書が本工を鑑する見どころであり、備前の脈は相州風の手の中に丁子の交じりとして残る。
守長は市場よりも指定の記録を通じて出会う工である。四口が各回にわたり重要刀剣に指定され、いずれも在銘で、その中に説明書が比類なしとする長巻直しの太刀と、好資料とする正平年紀の短刀がある。国宝も重要文化財もなく、本工の名の位置は、この少数の在銘重要刀剣に拠る。所在の記録は部分的だが、本工の名に連なる中に塩竈神社に納まる一口がある。私蔵の側から見れば、像は説明書自身の述べる稀少さに従う。在銘作がこれほど少なく、その僅かが上位の指定に集まる以上、守長は売立に出るのを期し得る刀ではなく、在銘の作が市に現れることは繰り返す好機ではなく稀な出来事である。現れるとすれば多くは本工が得意としたとされる長巻直しで、備州長船住守長の長銘と、説明書が本工の手の恒数として書き留めた沸の盛んな相伝備前の乱れを帯びている。