畠田派の光守は鎌倉後期備前の刀工で、銘鑑に正応(一二八八~九三)頃の作と伝える。重要美術品の堀田家伝来の太刀は、その判断を率直に記す。すなわち「この光守は銘鑑に正応(一二八八~九三)頃の畠田派の刀工とあるもの」に該当するであろう、という。説明書はそれ以上に系譜が定まらないことを明記し、銘鑑には年代も系譜も明らかでない。これに代わって工を支えるのは、その作風である。数少ない在銘作をみるに、蛙子丁子の目立つ華やかな丁子乱れが守家系を想わせ、銘の振り方もこれに相通じると説明書は記す。とりわけ二代守家に近いと極められ、数少ない在銘作が多くの無銘極めの拠り所となる。
見どころは、畠田派の標である蛙子丁子を主調とした、焼幅の広い匂出来の華やかな丁子乱れである。板目に杢を交えて肌立ちごころとなった鍛えの上に立ち、足・葉さかんに働き、焼に高低を見せて密に乱れる。説明書に繰り返し現れる工レベルの一文が、一門の作域をひとつの像に定める。代表作の二口、堀田家伝来の太刀と秋元家伝来の折返銘の脇指は、「これらは共に焼幅の広い、匂出来の丁子乱れを焼いて華麗な作風を示している」という。大磨上無銘の作はこれを読み下したもので、丁子に互の目・尖り刃を交え、小沸つき匂口明るい。第五十回の刀について説明書は、刃文が「彼の特色を明示しており、匂口が明るく」優れた出来映えを示すと記す。
地鉄は板目に杢を交え、処々流れて肌立ちごころとなり、地沸が微塵につき、地景細かに入る。これに乱れ映りが鮮やかに立ち、ほぼ全作で真先に挙げられ、肌立ちごころの板目とともに説明書が最も確かに指す見どころである。録中最も早い第十四回の太刀がその調子を直ちに示す。すなわち「板目やや流れごころに肌立ち、乱れ映りあざやかに立つ」と。刃中には金筋・砂流しが細かにかかり、働きの賑やかな作では焼頭に沿って飛焼を交える。帽子は乱れ込んで先尖りごころに掃きかけ、あるいは小丸に返る。匂口は時にややうるみごころを帯びるが、優れた作では明るく冴える。
作群は二つの面に分かれる。在銘の面は最も華やかで、よく詰んだ小板目に焼幅の広い匂出来の丁子乱れを焼き、袋丁子・蛙子丁子・重花丁子を交え、匂深く匂口明るく冴え、足・葉が働く。銘は大振りで個性的な二字銘を細鏨で切り、磨上のものは額銘あるいは折返銘として遺る。ある一口について説明書は、大磨上ながらも「常の通り細鏨で大振り」であると記す。典型の面は大磨上無銘の極めで、総体の出来と焼刃が在銘作によく結ばれることから、繰り返しの言葉どおり、焼刃の様相と総体の出来より光守の極めが導き出される。第二十四回の刀はその理を率直に述べ、「蛙子丁子が目立つ華やかな丁子乱れが一見守家系と首肯され、銘振りも相通じるものがある」という。
畠田派にあって光守は兄弟弟子の眞守と並び、両者は蛙子丁子を交えた焼幅の広い匂出来の丁子乱れと鮮やかな乱れ映りという同じ作域から読まれ、これが一派を長船本流へと導く作風である。説明書はその個性を比較によらず、自身の作の持つもので描く。すなわち古備前の手に見られない、温度の濃い蛙子丁子、ほぼ全作に立つ乱れ映り、そして畠田の兄弟弟子よりやや開きごころに読まれる板目である。第四十二回の太刀について説明書は、乱れ映りの立った鍛えに蛙子風を交えた丁子を主調とする出来が「同工の特徴がよく表れている」と記し、銘の下字が目釘孔にかかって判読しえぬところも、遺る「光」字の書風と作風から、その作に疑いはないとする。
光守は藤代の極めで上々作。重要刀剣十口を数え、これに重要美術品二口が加わる。後者は説明書が挙げる二口の在銘代表作、堀田家伝来の太刀と秋元家伝来の折返銘の脇指である。堀田家の太刀は「光山押形にも所載され」、藩政時代は徳川将軍家に伝来した。重要美術品の二口はいずれも現在東京国立博物館の所蔵であり、在銘の重要刀剣の太刀の一口は、説明書のいうとおり「数少ない光守の有銘作として注目される」もので、資料的にも貴重である。その作に録された来歴は、堀田家・秋元家、徳川将軍家・秋元家、そして皇室の手を経る。博物館蔵の重要美術品二口は取引されぬ伝来であり、残る十口は重要刀剣の級にあって在銘の作は乏しく、光守が市に現れることは稀で、求めるには時を待つほかない一口である。