田中清寿は、幕末の江戸金工を代表する上手であり、本名を田中文次郎といい、文化元年に武州の鐔工、田中房二郎の子として江戸で生まれた。芝新銭座町の隣の柴井町に住し、後藤清乗と関係のある後藤宗次郎正乗のもとで鐔工として修業したが、本人は金工を好み、独学で勉強し、親の号を踏襲して東龍斎と号した。後藤一乗とも親交があり、時流に即した洒落た彼独特の東龍斎流の作風を完成し、『幕末三名工』の一人に数えられている。流自・自流・我一格・一家式等の添銘をきり、弘化二年には法橋に叙され、翌三年に法眼に進んだ。多くの門人を養成すると同時に、数々の名作も遺し、明治九年、七十三歳で歿している。弟子の高橋東雲斎寿次に与えた作品も残されている。
清寿の作風は、後藤家や柳川家などの彫法を巧みに取り入れ、頗る新鮮な図案を以って、江戸好みの気の利いた東龍斎風を作り上げた点に特徴がある。意匠は広範囲に亘り、とりわけ人物図や鳥、動物などを得意とした。鉄、赤銅、朧銀など素材も多様であるが、鉄を巧みに彫上げ、小豆色と形容される独得の艶を帯びた鉄の錆色に評価が高い。鉄地のこなしや造込み、的確な象嵌色絵、流暢な文字の薄肉彫などに清寿らしさが認められる。また、影透の手法を大胆に用いることもあり、主題を影透で示す彫法は、同工の江戸前の洒落た個性がよくあらわれている。茎孔の上下に施した独特の責金は「口紅」と称され、同工・同派の大きな見どころとなっている。作には注文主が明記されたものも存在し、信州飯田の城主であり、将軍家慶の御側用人であった堀大和守親審からの注文が多い。
清寿の作は、その意匠の斬新さと、高度な彫技、そして江戸好みの洒落た感覚によって高く評価されている。重要刀装具の指定を受けている作品には、「清寿らしさに溢れる鐔」、「清寿独自の構想と技術が見事に結実した同作中の傑作」、「意匠・彫技共に完成度の高い出来映え」、「同工の個性が端的に示された佳作」、「同工ならではの技法が、画面により禅味を与えている」、「総体に手際のよさが光る洗練味に溢れる優品」といった評価が見られる。京都の後藤一乗と名声を競い、一乗同様に法眼に叙せられたことからも、その技量の高さが窺える。幕末金工を代表する上手として、後世に多大な影響を与えた。