横谷宗珉は横谷家の三代目にあたり、寛文十年(一六七〇)に江戸に生まれ、名を友常、通称を長二郎と称した。祖父の初代宗興(宗與)は後藤家七代顕乗の三男殷乗の門で学び、幕府の御用を務めた。宗珉も初めは家彫を学んで幕府に抱えられたが、後に禄を辞して野に下り、自由な世界で大いに腕を振るって大成し、「町彫の祖」と称された。享保十八年、六十四歳で没している。
説明は、宗珉が狩野派の画家狩野探幽や英一蝶らと親交を結び、その下絵を用いて研鑽を積み、独自の横谷獅子や枝牡丹をあらわしたと記す。浅妻船図小柄などは英一蝶の図によるものと推され、その獅子の姿態は英一蝶の影響を受けた横谷獅子と形容される。当代の絵画に拠るこの素地こそ、後藤の掟物の意匠から彼の彫を分かつものである。
宗珉の作風は大別すると高彫色絵と、彼の創始である片切彫の両手がある。赤銅魚子地を下地とした高彫色絵の作では、「圧倒的な肉置きの豊かさと高低の変化は自由闊達な鏨捌きと相俟って、正に王者の風格を堂々とあらわしている」と評される。独特の「横谷獅子」は筋骨隆々たる姿態に眼光鋭く、「他工の追随を許さない厳しさと凄味がある」と繰り返し称賛される。
竪図にして獅子・虎・馬などを正面または背面から描いた小柄の構図は斬新で、説明は十六の記録でこれが後世の金工に大きな影響を与えたとする。一方、片切彫の作では四分一磨地に深浅自在の鏨さばきを駆使し、水墨画を思わせる緩急を生み出している。阿倍仲麻呂図小柄にみる抑揚のある片切や、三国志図鐔における太鏨と極細の毛彫を使い分ける手腕は、宗珉の技術の幅を端的に示している。さらに表裏で仕立や彫法を変えて一枚の作品に調和させる技巧にも長じ、福禄寿図鐔では表の高彫と裏の片切彫を見事に統合している。
宗珉の出来は「横谷一門の統帥としての貫禄と抜群の技術」と総括され、後藤本家の作に比しても「優るとも劣らぬ」と評される。その出自が後藤家にあり、かつ十分に学んでいたことが作品の格調に顕著に表れている。容彫の肉取りが薄手である点、根が陰陽根である点も同工の鑑定上の見どころとされる。空間使いに巧みで、重厚な画題を闘達に展開する構成力は「流石に宗珉」と繰り返し称えられ、江戸金工の最大流派たる横谷派を築き上げた宗珉の卓越した技術と品格は、特別重要・重要刀装具に指定された数多の遺例を通じて遺憾なく証されている。
収集の観点では、宗珉の指定の記録は、指定係数において本データベースの刀装具作者中の首位にある。国宝はないが、獅子牡丹図の小柄・笄をはじめ四件が重要文化財に指定され、特別重要刀装具が六点、重要刀装具が二十五点ある。重要文化財は商われるものではなく信託された文化財である。その作は大名家や蒐集家の家に伝わり、記録された伝来には細川護立と永青文庫の細川コレクションをはじめとする細川家、津軽家、島津家、有馬家、庄内酒井家がある。指定品の現在の所蔵機関は記録されていない。重要刀装具・特別重要刀装具の在銘の小柄や目貫が世に出ることは稀であり、それは江戸の金工が後藤の掟を離れ、彼の創めた自由な作風へと向かった時を語る証である。