二世紀半の泰平のあいだ、刀は武器である以上に武士の身分の標章であった。江戸の実証と大坂の華やぎのように都市ごとの作風が育ち、時代の末には需要も細っていく。
是次は福岡石堂派の祖。備前福岡一文字派の末孫と称した利英の子で寛永六年(1629)生まれ。明暦元年(1655)江戸にのぼり江戸石堂の武蔵大掾是一門人となり備前伝の奥義を学んで三年後に帰国し黒田藩工となる。天和元年(1681)53歳没。本作は福岡石堂是次のめずらしい直刃出来脇指。出来が良い。寒山先生鞘書き(昭和40年丙午1966)あり。令和6年(2024年)9月審査で特別保存合格。
















Fukuoka Ishido (Chikuzen shinto) · 筑前 · 1628-1681頃
藤代 Jo saku · 刀剣大鑑 上位37%
現在1点販売中
是次は寛永五年(一六二八)に生まれ、天和元年(一六八一)三月に五十三歳で歿した。筑前黒田家の藩工で、明暦元年(一六五五)藩公の命により江戸に上り、石堂系の武蔵大掾左近是一に備前伝を学び、三年後に帰福した。従弟の守次とともに、説明書が福岡石堂を代表する上手とする。福岡石堂は、説明書が筑前信国一派と並べて筑前新刀の双璧とする一派である。通称を半三兵衛または一平と称し、嫡男利次が父に先んじて歿したため、守次が嫡流を相続した。本工の手は復興の手である。鎌倉福岡一文字の華やかな丁子を、二百五十年を隔てて新刀の鉄に蘇らせたもので、説明書はまさにこの点を最も得意としたとし、「最も一文字風の丁子刃を得意とし極めて上手」[[c:1]]と記す。
典型の刃は、焼幅広く処々鎬にかかるほど高く焼いた丁子乱れで、丁子の頭に互の目・小互の目・尖りごころの刃を交え、足・葉よく入って華やかに多様に乱れる。匂勝ちに小沸つき、細かに砂流しかかり、匂口明るく冴える。従弟との最上作では頭が締まり傾いて、丁子が逆がかる傾向をあらわす。これを説明書は一派特有の見どころとし、独得の袋丁子の形をなして「袋丁子の形に特色」[[c:2]]があるとする。いま一つの見どころは刃中にある。説明書が「烏賊の頭」と称する独特の刃で、焼幅が最も広く鎬に迫る処に現れ、同工・同派を示す見どころとされる。
地鉄は、復興作を本歌の鎌倉と分かつ地である。よくつんだ板目・小板目が下半強く流れてほとんど柾となり、地沸微塵につき、地景細かに入り、直ぐ状の映り、あるいは乱れ映りが立つ。この柾がかる地鉄こそ是一に直に学んだところで、説明書はこれを、小沸のつく締まった匂口と砂流しとともに、真の古作と区別する第一の点とし、その作には「映りけは少い」と記す。帽子は刃に応じ、焼深く乱れ込んで小丸となり、先掃きかける。姿は寛文新刀の体配で、鎬造・三ツ棟、身幅やや広く元先の幅差つき、重ね厚く、多くは反り浅い。
その現存作は別々の時代ではなく、一つの復興の手を出来の幅で見るものであり、その幅を説明書自身が描く。年紀のある幾口かは一派の型から外れると記される。福岡石堂は一般に丁子が逆がかるが、これらの作にその傾向は顕著でなく、やや趣を異にするとする。まさにそうした作では、逆がかる丁子ではなく、柾がかって映りの立つ地、鎬に迫る広い焼幅、深い帽子、「烏賊の頭」をもって同工と確かめられる。作は一様に在銘で、認められる七口はいずれも独特な書体の長銘を太鏨で指表に切り、幾口かは年紀を加え、一口は寛文十一年の金象嵌年紀を持つ。かくして新刀期の工が、極めではなく自らの銘から読まれる。最も大きいのは寛文六年の奉納刀で、身幅一際広く長寸に反り深く、説明書は大作にもかかわらず破綻のない典型作とする。
一派における位置は、借り物の比較ではなく従弟との対比によって定まる。守次が同じ寛文新刀期に反りの深いものを多く作るのに対し、是次は反対に反りの浅い寛文の造込みを多く作る。説明書がこれを特に挙げ、「反りの浅い造込みのものが多い」[[c:4]]と記す。師の是一、すなわち江戸石堂の武蔵大掾は、復興全体を鎌倉一文字から分かつ柾の地鉄と逆がかる丁子を本工に授けた。真の古作に対しては、細かな柾と小沸のつく締まった匂口と砂流しによって分かたれ、華やかな大坂石堂に対しては、筑前の地と深く焼いた帽子を保つ。説明書はその最上作を一派の代表作とし「同作中の傑作の一口」[[c:5]]とし、ある作を「筑前石堂の典型作」[[c:6]]とする。
収集の観点では、是次は指定品の名というより重要刀剣級の新刀の名である。国宝はなく、重要文化財もない。その記録はすべて重要刀剣の級を通じ、在銘七口が第十三回から第五十回に至る回の審査を通っている。現存の記録に来歴は乏しく、その作に確かめうる美術館や大名家はないが、寛文九年紀の一口は讃岐香西氏の一族の注文打で、香西氏は南北朝以来細川氏の被官であり、黒変り塗鞘の打刀拵を伴って残る。拵の金具は柳川直明に極められる。現存例がことごとく在銘でその多くが旧蔵であるため、是次が世に出るのは時折のことであり、しかも大振りの奉納刀よりは反りの浅い寛文作が中心である。世に出れば、それは状態のよい自証の新刀一文字復興であり、説明書のいう「是次の本領が遺憾無く発揮された一口」[[c:7]]であって、寛文の世に福岡の丁子がいかに焼き直されたかを語る明らかな窓である。
是次の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
新刀 · 筑前
現在2点販売中
福岡石堂は、筑前国福岡を本拠として新刀期に興った一派である。説示はこれを、筑前信国一派と並んで筑前新刀の双璧をなすものと位置づけ、是次・守次の二工をもって一派を代表する上手と記している。その出自は江戸石堂に遡る。代表工是次は寛永五年に生まれ、明暦元年に藩公黒田光之の命を受けて江戸へ上り、武蔵大掾左近是一の門に入って備前伝を修め、三年の後に帰国して黒田家に仕えた。守次は父利平の歿後、従兄の是次に師事し、是次の嫡男利次が父に先んじて歿したため嫡家を相続したと伝えられる。すなわち福岡石堂は、黒田藩の庇護のもとで是一を介して石堂の備前伝を承け、筑前の地に古一文字風の丁子を再興した分派にほかならない。是次は天和元年に五十三歳で歿し、守次は元禄十四年に六十九歳で歿したと説示は記す。 作風について説示が繰り返し挙げるのは、是一の影響を受けて鍛えに柾気を帯びる点である。地鉄は小板目あるいは板目がよくつみ、総体に流れて下半が強く流れ柾がかり、地沸が微塵につき、乱れ映り、ないし直ぐ状の映りが立つ。刃文は焼幅を広く取り、丁子乱れに互の目・小互の目・角ばる刃・尖りごころの刃など多種の刃を交えて華やかに乱れ、足・葉がよく入り、匂勝ちに小沸がつく。重花丁子や蛙子を交えるものもある。最も顕著な見どころは、丁子の乱れが総体に逆がかること、そして処々で焼頭が鎬にかかるほど焼幅が広く、刃中に俗に「烏賊の頭」と称される独特の丸い刃が交じる点である。さらに帽子の焼が深く、物打より上に飛焼・棟焼をさかんに交えること、銘を楷・行・隷書を交えた特色ある書風に切ることも見どころに数えられる。説示が名を挙げる工は、是次・守次のほか、守次とその子守昌の合作、そして守次の父利平である。 伝承と鑑定の要点として、説示は是次と守次の姿の差をしばしば注意する。是次には反りの浅い寛文新刀然とした造込みが多く、守次には比較的反りの深いものがよく見られるとし、これを同派の姿の特色とする。一方で、逆がかりが顕著でない作もあり、その場合でも柾がかる鍛え・立つ映り・「烏賊の頭」・深い帽子の焼によって同工同派と判ぜられる。代表作としては、寛文九年紀の長銘・年紀・注文者銘を備えた一口(注文者を讃岐香西氏の一族かと推する)、寛文六年紀の身幅極めて広い長寸の奉納刀、截断銘を伴う是次の作、「以南蛮鉄造之」の添銘を持つ守次の作、守次・守昌の合作で彫物を伴う一口などが説示に記され、年紀や截断銘・南蛮鉄銘はいずれも同派研究上の好資料とされる。かくして福岡石堂は、江戸石堂を介して備前伝を承け、柾がかる地鉄と逆がかる丁子という独自の風を筑前の地に確立した一派として位置づけられている。 詳しく見る →
二世紀半の泰平のあいだ、刀は武器である以上に武士の身分の標章であった。江戸の実証と大坂の華やぎのように都市ごとの作風が育ち、時代の末には需要も細っていく。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト商品到着後7日以内※①商品に手を加えた場合、②海外取引の場合は返品不可となります。
是次は福岡石堂派の祖。備前福岡一文字派の末孫と称した利英の子で寛永六年(1629)生まれ。明暦元年(1655)江戸にのぼり江戸石堂の武蔵大掾是一門人となり備前伝の奥義を学んで三年後に帰国し黒田藩工となる。天和元年(1681)53歳没。本作は福岡石堂是次のめずらしい直刃出来脇指。出来が良い。寒山先生鞘書き(昭和40年丙午1966)あり。令和6年(2024年)9月審査で特別保存合格。
















Fukuoka Ishido (Chikuzen shinto) · 筑前 · 1628-1681頃
藤代 Jo saku · 刀剣大鑑 上位37%
現在1点販売中
是次は寛永五年(一六二八)に生まれ、天和元年(一六八一)三月に五十三歳で歿した。筑前黒田家の藩工で、明暦元年(一六五五)藩公の命により江戸に上り、石堂系の武蔵大掾左近是一に備前伝を学び、三年後に帰福した。従弟の守次とともに、説明書が福岡石堂を代表する上手とする。福岡石堂は、説明書が筑前信国一派と並べて筑前新刀の双璧とする一派である。通称を半三兵衛または一平と称し、嫡男利次が父に先んじて歿したため、守次が嫡流を相続した。本工の手は復興の手である。鎌倉福岡一文字の華やかな丁子を、二百五十年を隔てて新刀の鉄に蘇らせたもので、説明書はまさにこの点を最も得意としたとし、「最も一文字風の丁子刃を得意とし極めて上手」[[c:1]]と記す。
典型の刃は、焼幅広く処々鎬にかかるほど高く焼いた丁子乱れで、丁子の頭に互の目・小互の目・尖りごころの刃を交え、足・葉よく入って華やかに多様に乱れる。匂勝ちに小沸つき、細かに砂流しかかり、匂口明るく冴える。従弟との最上作では頭が締まり傾いて、丁子が逆がかる傾向をあらわす。これを説明書は一派特有の見どころとし、独得の袋丁子の形をなして「袋丁子の形に特色」[[c:2]]があるとする。いま一つの見どころは刃中にある。説明書が「烏賊の頭」と称する独特の刃で、焼幅が最も広く鎬に迫る処に現れ、同工・同派を示す見どころとされる。
地鉄は、復興作を本歌の鎌倉と分かつ地である。よくつんだ板目・小板目が下半強く流れてほとんど柾となり、地沸微塵につき、地景細かに入り、直ぐ状の映り、あるいは乱れ映りが立つ。この柾がかる地鉄こそ是一に直に学んだところで、説明書はこれを、小沸のつく締まった匂口と砂流しとともに、真の古作と区別する第一の点とし、その作には「映りけは少い」と記す。帽子は刃に応じ、焼深く乱れ込んで小丸となり、先掃きかける。姿は寛文新刀の体配で、鎬造・三ツ棟、身幅やや広く元先の幅差つき、重ね厚く、多くは反り浅い。
その現存作は別々の時代ではなく、一つの復興の手を出来の幅で見るものであり、その幅を説明書自身が描く。年紀のある幾口かは一派の型から外れると記される。福岡石堂は一般に丁子が逆がかるが、これらの作にその傾向は顕著でなく、やや趣を異にするとする。まさにそうした作では、逆がかる丁子ではなく、柾がかって映りの立つ地、鎬に迫る広い焼幅、深い帽子、「烏賊の頭」をもって同工と確かめられる。作は一様に在銘で、認められる七口はいずれも独特な書体の長銘を太鏨で指表に切り、幾口かは年紀を加え、一口は寛文十一年の金象嵌年紀を持つ。かくして新刀期の工が、極めではなく自らの銘から読まれる。最も大きいのは寛文六年の奉納刀で、身幅一際広く長寸に反り深く、説明書は大作にもかかわらず破綻のない典型作とする。
一派における位置は、借り物の比較ではなく従弟との対比によって定まる。守次が同じ寛文新刀期に反りの深いものを多く作るのに対し、是次は反対に反りの浅い寛文の造込みを多く作る。説明書がこれを特に挙げ、「反りの浅い造込みのものが多い」[[c:4]]と記す。師の是一、すなわち江戸石堂の武蔵大掾は、復興全体を鎌倉一文字から分かつ柾の地鉄と逆がかる丁子を本工に授けた。真の古作に対しては、細かな柾と小沸のつく締まった匂口と砂流しによって分かたれ、華やかな大坂石堂に対しては、筑前の地と深く焼いた帽子を保つ。説明書はその最上作を一派の代表作とし「同作中の傑作の一口」[[c:5]]とし、ある作を「筑前石堂の典型作」[[c:6]]とする。
収集の観点では、是次は指定品の名というより重要刀剣級の新刀の名である。国宝はなく、重要文化財もない。その記録はすべて重要刀剣の級を通じ、在銘七口が第十三回から第五十回に至る回の審査を通っている。現存の記録に来歴は乏しく、その作に確かめうる美術館や大名家はないが、寛文九年紀の一口は讃岐香西氏の一族の注文打で、香西氏は南北朝以来細川氏の被官であり、黒変り塗鞘の打刀拵を伴って残る。拵の金具は柳川直明に極められる。現存例がことごとく在銘でその多くが旧蔵であるため、是次が世に出るのは時折のことであり、しかも大振りの奉納刀よりは反りの浅い寛文作が中心である。世に出れば、それは状態のよい自証の新刀一文字復興であり、説明書のいう「是次の本領が遺憾無く発揮された一口」[[c:7]]であって、寛文の世に福岡の丁子がいかに焼き直されたかを語る明らかな窓である。
是次の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
新刀 · 筑前
現在2点販売中
福岡石堂は、筑前国福岡を本拠として新刀期に興った一派である。説示はこれを、筑前信国一派と並んで筑前新刀の双璧をなすものと位置づけ、是次・守次の二工をもって一派を代表する上手と記している。その出自は江戸石堂に遡る。代表工是次は寛永五年に生まれ、明暦元年に藩公黒田光之の命を受けて江戸へ上り、武蔵大掾左近是一の門に入って備前伝を修め、三年の後に帰国して黒田家に仕えた。守次は父利平の歿後、従兄の是次に師事し、是次の嫡男利次が父に先んじて歿したため嫡家を相続したと伝えられる。すなわち福岡石堂は、黒田藩の庇護のもとで是一を介して石堂の備前伝を承け、筑前の地に古一文字風の丁子を再興した分派にほかならない。是次は天和元年に五十三歳で歿し、守次は元禄十四年に六十九歳で歿したと説示は記す。 作風について説示が繰り返し挙げるのは、是一の影響を受けて鍛えに柾気を帯びる点である。地鉄は小板目あるいは板目がよくつみ、総体に流れて下半が強く流れ柾がかり、地沸が微塵につき、乱れ映り、ないし直ぐ状の映りが立つ。刃文は焼幅を広く取り、丁子乱れに互の目・小互の目・角ばる刃・尖りごころの刃など多種の刃を交えて華やかに乱れ、足・葉がよく入り、匂勝ちに小沸がつく。重花丁子や蛙子を交えるものもある。最も顕著な見どころは、丁子の乱れが総体に逆がかること、そして処々で焼頭が鎬にかかるほど焼幅が広く、刃中に俗に「烏賊の頭」と称される独特の丸い刃が交じる点である。さらに帽子の焼が深く、物打より上に飛焼・棟焼をさかんに交えること、銘を楷・行・隷書を交えた特色ある書風に切ることも見どころに数えられる。説示が名を挙げる工は、是次・守次のほか、守次とその子守昌の合作、そして守次の父利平である。 伝承と鑑定の要点として、説示は是次と守次の姿の差をしばしば注意する。是次には反りの浅い寛文新刀然とした造込みが多く、守次には比較的反りの深いものがよく見られるとし、これを同派の姿の特色とする。一方で、逆がかりが顕著でない作もあり、その場合でも柾がかる鍛え・立つ映り・「烏賊の頭」・深い帽子の焼によって同工同派と判ぜられる。代表作としては、寛文九年紀の長銘・年紀・注文者銘を備えた一口(注文者を讃岐香西氏の一族かと推する)、寛文六年紀の身幅極めて広い長寸の奉納刀、截断銘を伴う是次の作、「以南蛮鉄造之」の添銘を持つ守次の作、守次・守昌の合作で彫物を伴う一口などが説示に記され、年紀や截断銘・南蛮鉄銘はいずれも同派研究上の好資料とされる。かくして福岡石堂は、江戸石堂を介して備前伝を承け、柾がかる地鉄と逆がかる丁子という独自の風を筑前の地に確立した一派として位置づけられている。 詳しく見る →
二世紀半の泰平のあいだ、刀は武器である以上に武士の身分の標章であった。江戸の実証と大坂の華やぎのように都市ごとの作風が育ち、時代の末には需要も細っていく。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト商品到着後7日以内※①商品に手を加えた場合、②海外取引の場合は返品不可となります。