丸形 鉄地 肉彫地透 象嵌 角耳小肉 秋田正阿弥は、佐竹家の彫金工として五代に渡って出仕し、名声を誇った。伝兵衛重吉を初代とし、二代伝内重高、三代伝七重常、重常の子が四代重央で、五代が重恒となっている。伝兵衞は秋田正阿弥と称して独自の工法を創案工夫しており、この芸風は一門の人々によって着実に継承されている。これと並行して享保頃から奈良派の彫法が模作されている。この2つのものが渾然として秋田正阿弥の施工技術のの基本となっているようである。この一派は鐔を主として造り、丸形が多く、異形は少ない。地鉄は鉄が多く、次いで赤銅がある。



















傳兵衛
Keian-Kyoho (1651-1727)
出羽
在銘
特別保存 (NBTHK)
鐔工 · 出羽
現在2点販売中
正阿弥傳兵衛は、出羽秋田正阿弥派を代表する金工である。慶安四年(1651年)に出羽国庄内(現在の山形県庄内地方)に生まれ、寛文八年(1668年)十八歳の時に江戸へ出て正阿弥吉長の門に入り、その技を学んだ。延宝四年(1676年)に正阿弥の流名を許され、正阿弥傳兵衛と名乗る。延宝元年(1673年)に遡って秋田に移り、同三年(1675年)には秋田藩主佐竹義処の抱え工となり、秋田正阿弥随一の金工として活躍した。享保十二年(1727年)に七十七歳で没した。秋田正阿弥派は慶長年間に佐竹侯に従って江戸より秋田へ移住したと伝えられる。
傳兵衛の作風は多岐にわたり、「秋田名物の蕗図や雲龍図を肉彫地透象嵌で表したものや、漆芸の堆朱のような効果を発揮したぐり彫などをはじめ多岐に亘っている」[[c:1]]。特に秋田名産の蕗を題材とした作品が多く遺されている。地金は朧銀、赤銅、四分一、鉄などを用い、高彫、肉彫地透、象嵌、ぐり彫など、様々な技法を駆使している。象嵌においては、金、銀、七宝などを用い、線象嵌、布目象嵌など高度な技術を示す。構図は写実に図案を加味した独特のデザインであり、漆芸の技術であるぐり彫を取り入れるなど、色彩効果も重視している点が特色として挙げられる。また、肥後や京・阿波の唐草とは全く異なった獨特の金布目象嵌の意匠も見られる。真丸形、お多福木瓜形、変り撫木瓜形、六角形など、鐔の形状も多様である。
傳兵衛の作品は、「構図が斬新であり、線象嵌や布目象嵌など高度な象嵌技術には目を見張らせるものがある」[[c:2]]と評されるように、その意匠の斬新さと高度な技術が特徴である。また、「写実に図案を加味して、正阿弥の伝統の上に秋田正阿弥という個性的な作風を示した」[[c:3]]と評されるように、伝統的な技術を継承しつつも、秋田正阿弥派としての個性を確立した。その作域の広さ、技術の高さ、意匠の斬新さから、秋田正阿弥派第一の名工と称され、同派を代表する人物として高く評価されている。
傳兵衛の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
鐔工 · Kyoto
現在189点販売中
正阿弥派は室町時代中期頃に興った鐔工の一派である。室町中期から末期にかけて専門の鐔工が登場するが、京の正阿弥もその主たるものであり、この時期の作を古正阿弥の名で言いならわしている。そもそも京都には同朋衆として阿弥衆が存在し、その中に正阿弥一派があった。有名の作はないものの、刀装金具師から鐔工となったというのが今日の通説である。桃山時代には京都に栄え、慶長八年の年紀を有する彦十郎の太刀鐔・大切羽一組はその隆盛の一端を伝えている。同派は江戸期に入ると各地に移住分派し栄えた。秋田正阿弥もその一類で、伝兵衛重吉を事実上の祖としている。傳兵衛は慶安四年に出羽国庄内に生まれ、寛文八年十八歳の時に江戸へ出て正阿弥吉長の弟子となり、延宝元年に秋田へ移り、同三年に藩主佐竹義処の抱え工となり、同四年に正阿弥の流名を許された。以後嫡流は伝内重高、伝七重常、嘉吉重央と続いている。また岡山正阿弥は池田藩に仕え、幕末には藤四郎家九代を継いだ勝義が出た。 古正阿弥と呼ばれるものの作風を見ると、鉄に透彫をして、それに金・銀などの布目象嵌を施したものが通例である。鍛えの良いやや薄手の鉄磨地に左右大透など大胆な地透を切り、日足鑢に赤銅象嵌を加え、耳に縄目文の銀象嵌や雷文繫の金布目象嵌を施すなど、斬新で力強い意匠に見どころがある。一方、赤銅魚子地に高彫・金色絵で家紋を散らす糸巻太刀拵の総金具など格式の高い太刀金具も手掛けており、長右衛門の針書銘や秋田の六弥の年紀銘を有する作が知られる。秋田正阿弥随一の金工傳兵衛の作域は広く、秋田名物の蕗図や雲龍図を肉彫地透象嵌で表したものや、漆芸の堆朱のような効果を発揮したぐり彫などをはじめ多岐に亘っているが、いずれも構図が斬新であり、線象嵌や布目象嵌など高度な象嵌技術には目を見張るものがある。平地に施された金七宝象嵌は平田本家における七宝手法と全く同一のものであり、両家の交流の証として貴重である。岡山の勝義は堂々とした造込みに堅実な鏨使いで重厚感のある高彫を施し、金・銀・赤銅・素銅・四分一の入念精緻な象嵌を存分に用いており、実兄勝実を通じて後藤一乗の作風も学んでいる。 古正阿弥の鐔は、肥後細川家や大徳川家に伝来した打刀拵、信長拵を手本に制作された肥後打刀拵、宮本武蔵の高弟寺尾信行の指料と伝える拵などに用いられており、武家の実用と雅味の双方に応えた同派への評価を物語っている。慶長八年や天明二年などの年紀作は資料性が極めて高く、正阿弥研究の進展に大きく寄与するものである。秋田では傳兵衛が秋田随一の金工として活躍し、三代傳七も初・二代同様に藩主佐竹家の藩工として腕を振るい、江戸の佐野直照に学んだ重照ら門流も確かな構図・彫技を示した。幕末明治の勝義は明治九年に廃刀令にあって刀装具の制作を断ったが、持国天図鐔や七十三翁銘の難波潟歌絵図鐔など、風流のなかにも覇気を感じさせる傑作を遺している。先祖正阿弥から受け継いだ伝統に用即美の華を添えたその系譜は、室町の京に発して諸国に広がり、近世金工の掉尾を飾るまで連綿と続いた一大流派として、刀装具史に確固たる位置を占めている。 詳しく見る →
保存刀装具のうち、出来・保存状態が一層優れ、銘文や作風に資料的価値の高いものと認められたものです。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト商品発送後の返品・交換・キャンセルには、基本的に対応しておりません。商品に重大な瑕疵がある場合のみ、当サイトでご購入いただいた商品到着後3日以内であれば返品•交換が可能です。
丸形 鉄地 肉彫地透 象嵌 角耳小肉 秋田正阿弥は、佐竹家の彫金工として五代に渡って出仕し、名声を誇った。伝兵衛重吉を初代とし、二代伝内重高、三代伝七重常、重常の子が四代重央で、五代が重恒となっている。伝兵衞は秋田正阿弥と称して独自の工法を創案工夫しており、この芸風は一門の人々によって着実に継承されている。これと並行して享保頃から奈良派の彫法が模作されている。この2つのものが渾然として秋田正阿弥の施工技術のの基本となっているようである。この一派は鐔を主として造り、丸形が多く、異形は少ない。地鉄は鉄が多く、次いで赤銅がある。



















傳兵衛
Keian-Kyoho (1651-1727)
出羽
在銘
特別保存 (NBTHK)
鐔工 · 出羽
現在2点販売中
正阿弥傳兵衛は、出羽秋田正阿弥派を代表する金工である。慶安四年(1651年)に出羽国庄内(現在の山形県庄内地方)に生まれ、寛文八年(1668年)十八歳の時に江戸へ出て正阿弥吉長の門に入り、その技を学んだ。延宝四年(1676年)に正阿弥の流名を許され、正阿弥傳兵衛と名乗る。延宝元年(1673年)に遡って秋田に移り、同三年(1675年)には秋田藩主佐竹義処の抱え工となり、秋田正阿弥随一の金工として活躍した。享保十二年(1727年)に七十七歳で没した。秋田正阿弥派は慶長年間に佐竹侯に従って江戸より秋田へ移住したと伝えられる。
傳兵衛の作風は多岐にわたり、「秋田名物の蕗図や雲龍図を肉彫地透象嵌で表したものや、漆芸の堆朱のような効果を発揮したぐり彫などをはじめ多岐に亘っている」[[c:1]]。特に秋田名産の蕗を題材とした作品が多く遺されている。地金は朧銀、赤銅、四分一、鉄などを用い、高彫、肉彫地透、象嵌、ぐり彫など、様々な技法を駆使している。象嵌においては、金、銀、七宝などを用い、線象嵌、布目象嵌など高度な技術を示す。構図は写実に図案を加味した独特のデザインであり、漆芸の技術であるぐり彫を取り入れるなど、色彩効果も重視している点が特色として挙げられる。また、肥後や京・阿波の唐草とは全く異なった獨特の金布目象嵌の意匠も見られる。真丸形、お多福木瓜形、変り撫木瓜形、六角形など、鐔の形状も多様である。
傳兵衛の作品は、「構図が斬新であり、線象嵌や布目象嵌など高度な象嵌技術には目を見張らせるものがある」[[c:2]]と評されるように、その意匠の斬新さと高度な技術が特徴である。また、「写実に図案を加味して、正阿弥の伝統の上に秋田正阿弥という個性的な作風を示した」[[c:3]]と評されるように、伝統的な技術を継承しつつも、秋田正阿弥派としての個性を確立した。その作域の広さ、技術の高さ、意匠の斬新さから、秋田正阿弥派第一の名工と称され、同派を代表する人物として高く評価されている。
傳兵衛の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
鐔工 · Kyoto
現在189点販売中
正阿弥派は室町時代中期頃に興った鐔工の一派である。室町中期から末期にかけて専門の鐔工が登場するが、京の正阿弥もその主たるものであり、この時期の作を古正阿弥の名で言いならわしている。そもそも京都には同朋衆として阿弥衆が存在し、その中に正阿弥一派があった。有名の作はないものの、刀装金具師から鐔工となったというのが今日の通説である。桃山時代には京都に栄え、慶長八年の年紀を有する彦十郎の太刀鐔・大切羽一組はその隆盛の一端を伝えている。同派は江戸期に入ると各地に移住分派し栄えた。秋田正阿弥もその一類で、伝兵衛重吉を事実上の祖としている。傳兵衛は慶安四年に出羽国庄内に生まれ、寛文八年十八歳の時に江戸へ出て正阿弥吉長の弟子となり、延宝元年に秋田へ移り、同三年に藩主佐竹義処の抱え工となり、同四年に正阿弥の流名を許された。以後嫡流は伝内重高、伝七重常、嘉吉重央と続いている。また岡山正阿弥は池田藩に仕え、幕末には藤四郎家九代を継いだ勝義が出た。 古正阿弥と呼ばれるものの作風を見ると、鉄に透彫をして、それに金・銀などの布目象嵌を施したものが通例である。鍛えの良いやや薄手の鉄磨地に左右大透など大胆な地透を切り、日足鑢に赤銅象嵌を加え、耳に縄目文の銀象嵌や雷文繫の金布目象嵌を施すなど、斬新で力強い意匠に見どころがある。一方、赤銅魚子地に高彫・金色絵で家紋を散らす糸巻太刀拵の総金具など格式の高い太刀金具も手掛けており、長右衛門の針書銘や秋田の六弥の年紀銘を有する作が知られる。秋田正阿弥随一の金工傳兵衛の作域は広く、秋田名物の蕗図や雲龍図を肉彫地透象嵌で表したものや、漆芸の堆朱のような効果を発揮したぐり彫などをはじめ多岐に亘っているが、いずれも構図が斬新であり、線象嵌や布目象嵌など高度な象嵌技術には目を見張るものがある。平地に施された金七宝象嵌は平田本家における七宝手法と全く同一のものであり、両家の交流の証として貴重である。岡山の勝義は堂々とした造込みに堅実な鏨使いで重厚感のある高彫を施し、金・銀・赤銅・素銅・四分一の入念精緻な象嵌を存分に用いており、実兄勝実を通じて後藤一乗の作風も学んでいる。 古正阿弥の鐔は、肥後細川家や大徳川家に伝来した打刀拵、信長拵を手本に制作された肥後打刀拵、宮本武蔵の高弟寺尾信行の指料と伝える拵などに用いられており、武家の実用と雅味の双方に応えた同派への評価を物語っている。慶長八年や天明二年などの年紀作は資料性が極めて高く、正阿弥研究の進展に大きく寄与するものである。秋田では傳兵衛が秋田随一の金工として活躍し、三代傳七も初・二代同様に藩主佐竹家の藩工として腕を振るい、江戸の佐野直照に学んだ重照ら門流も確かな構図・彫技を示した。幕末明治の勝義は明治九年に廃刀令にあって刀装具の制作を断ったが、持国天図鐔や七十三翁銘の難波潟歌絵図鐔など、風流のなかにも覇気を感じさせる傑作を遺している。先祖正阿弥から受け継いだ伝統に用即美の華を添えたその系譜は、室町の京に発して諸国に広がり、近世金工の掉尾を飾るまで連綿と続いた一大流派として、刀装具史に確固たる位置を占めている。 詳しく見る →
保存刀装具のうち、出来・保存状態が一層優れ、銘文や作風に資料的価値の高いものと認められたものです。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
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