
太刀 白鞘入り
¥2,800,000
世界76社の刀剣商を横断追跡 · 価格履歴 · 売却アーカイブ
仕様
77.2 cm
3 cm
3.27 cm
2.45 cm
刀剣小町 太刀 隅谷正峯 銘 表 : 傘笠両山子正峯作之 / 裏 : 乙卯年霜月日 白鞘入 (Tachi, Sumitani Masamine) 本作は隅谷正峯刀匠が3回目の正宗賞を受賞した翌年に制作され、鎌倉時代の名刀に迫る丁子乱れが華麗な二尺五寸超の堂々たる姿の太刀です。 隅谷正峯(1921~1998)は、大正10年1月24日、石川県石川郡松任町(現白山市辰巳町)の醤油醸造・販売業を営む家に生まれた。本名は与一郎(與一郎とも)、正峯の名は師匠である桜井正幸の名から「正」をもらい「峯」は姓名判断の心得のある人にみつけてもらった。富士山、立山と共に「日本三名山」のひとつとして知られる白山を幼い頃から仰ぎ見て育ったため偶然の巡り合わせだった。松任は白山の水の賜物と言われ、自身の作品も白山の賜物といえるかもしれないと述べている。 安政生まれの祖父与三郎は、はたち前に大工修行を積み、京都へ出て東本願寺で仏閣建築に携わった。そんな祖父の血を引いたのか手先が器用で小学校の頃の図画工作はいつも十点満点だった。 石川県立金沢第一中学校(現県立金沢泉丘高校)時代には、当時第九師団の司令部があった金沢の武張った軍都の雰囲気の中で刀の鑑賞に目覚め、帰宅の汽車を待つ時間に刀の鑑賞会などをのぞいて回り、我が家の蔵では大阪新刀・源信吉の二尺余の刀を見つけ出したりする。 「男は一人前になる前に白山へ登っておかなくてはならない」と加賀では言い伝えており、中学三年の夏休みに仲間と往復4日かかりで登り、登山の楽しみを覚え山岳部の門を叩き全国の山を歩く。学業は理数系は得意だったが英語が苦手、勉強一点張りの校風と家業を継いで欲しいという家の雰囲気に嫌気がさしていた。昭和13年3月金沢一中を卒業、大阪で弁護士をしていた伯父の元で書生をしていた時に京都の立命館の高専理工部が学生募集をしていることを知り、昭和14年4月、理工学部の機械工学科に入学する。 ある日、衣笠山のふもと等持院にほど近い建設中のキャンパスをそぞろ歩いていた時、「立命館日本刀鍛錬所」と墨書した白ペンキの棒杭が目に入る。その時の不思議な感動は、後年にもはっきりと思い出すことができるほどで、啓示のようにポツンと立っていた。鍛錬所は、立命館の中川小十郎総長が自分の趣味も兼ね、学生の参考にもなればと作られた。指導に当たる刀匠として桜井正幸刀匠が招かれていた。桜井正幸刀匠の父・桜井卍正次刀匠は、明治元年生まれで金剛斎とも称し、東京美術学校の美術工芸科の鍛金科で教鞭をとったことがあり、有栖川宮威仁親王の相手鍛冶をつとめたことでも知られる。正幸先生は、幼い頃から父の薫陶を受け、刀剣や鍛造に関する知識が非常に豊富だった。 隅谷氏は10人ほどの仲間と「日本刀研究部」をつくり、週一度、正幸先生を招き日本刀の歴史の講義を聴いた。

¥2,800,000
世界76社の刀剣商を横断追跡 · 価格履歴 · 売却アーカイブ
77.2 cm
3 cm
3.27 cm
2.45 cm
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刀剣小町 太刀 隅谷正峯 銘 表 : 傘笠両山子正峯作之 / 裏 : 乙卯年霜月日 白鞘入 (Tachi, Sumitani Masamine) 本作は隅谷正峯刀匠が3回目の正宗賞を受賞した翌年に制作され、鎌倉時代の名刀に迫る丁子乱れが華麗な二尺五寸超の堂々たる姿の太刀です。 隅谷正峯(1921~1998)は、大正10年1月24日、石川県石川郡松任町(現白山市辰巳町)の醤油醸造・販売業を営む家に生まれた。本名は与一郎(與一郎とも)、正峯の名は師匠である桜井正幸の名から「正」をもらい「峯」は姓名判断の心得のある人にみつけてもらった。富士山、立山と共に「日本三名山」のひとつとして知られる白山を幼い頃から仰ぎ見て育ったため偶然の巡り合わせだった。松任は白山の水の賜物と言われ、自身の作品も白山の賜物といえるかもしれないと述べている。 安政生まれの祖父与三郎は、はたち前に大工修行を積み、京都へ出て東本願寺で仏閣建築に携わった。そんな祖父の血を引いたのか手先が器用で小学校の頃の図画工作はいつも十点満点だった。 石川県立金沢第一中学校(現県立金沢泉丘高校)時代には、当時第九師団の司令部があった金沢の武張った軍都の雰囲気の中で刀の鑑賞に目覚め、帰宅の汽車を待つ時間に刀の鑑賞会などをのぞいて回り、我が家の蔵では大阪新刀・源信吉の二尺余の刀を見つけ出したりする。 「男は一人前になる前に白山へ登っておかなくてはならない」と加賀では言い伝えており、中学三年の夏休みに仲間と往復4日かかりで登り、登山の楽しみを覚え山岳部の門を叩き全国の山を歩く。学業は理数系は得意だったが英語が苦手、勉強一点張りの校風と家業を継いで欲しいという家の雰囲気に嫌気がさしていた。昭和13年3月金沢一中を卒業、大阪で弁護士をしていた伯父の元で書生をしていた時に京都の立命館の高専理工部が学生募集をしていることを知り、昭和14年4月、理工学部の機械工学科に入学する。 ある日、衣笠山のふもと等持院にほど近い建設中のキャンパスをそぞろ歩いていた時、「立命館日本刀鍛錬所」と墨書した白ペンキの棒杭が目に入る。その時の不思議な感動は、後年にもはっきりと思い出すことができるほどで、啓示のようにポツンと立っていた。鍛錬所は、立命館の中川小十郎総長が自分の趣味も兼ね、学生の参考にもなればと作られた。指導に当たる刀匠として桜井正幸刀匠が招かれていた。桜井正幸刀匠の父・桜井卍正次刀匠は、明治元年生まれで金剛斎とも称し、東京美術学校の美術工芸科の鍛金科で教鞭をとったことがあり、有栖川宮威仁親王の相手鍛冶をつとめたことでも知られる。正幸先生は、幼い頃から父の薫陶を受け、刀剣や鍛造に関する知識が非常に豊富だった。 隅谷氏は10人ほどの仲間と「日本刀研究部」をつくり、週一度、正幸先生を招き日本刀の歴史の講義を聴いた。

¥2,800,000
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77.2 cm
3 cm
3.27 cm
2.45 cm
¥2,800,000