石堂運寿是一は長雲斎綱俊の子(甥とされていたが「石堂是一家文書」で綱俊次男であったことが証される)。文政三年(1820)生れ。天保十二年(1841)跡継ぎのなかった幕府御用鍛冶石堂是一六代の養子となり運寿斎と号し、石堂家の七代目を継いだ。明治二十四年(1891)71歳没。運寿是一は、伊勢神宮、日光東照宮への奉納刀を、また嘉永七年(1854)に米国、安政六年(1859)に英国への贈刀を幕府御用鍛冶として作刀。幕末期を代表する最上級刀工のひとり。本作は、清和源氏白石時敏佩刀の所持銘が刻された長大2尺8寸、安政五年(1858)是一38歳、力漲る会心作。2002年特別保存刀剣審査合格。
















Shinto · 近江
現在46点販売中
石堂派は、近江国蒲生郡石堂村の刀工に淵源を有する一門である。慶長から元和・寛永にかけて、これらの刀工は近江よりまず京都へ上り、のちに江戸へ下って一派を成したと伝えられ、これがいわゆる江戸石堂の祖となった。武蔵大掾是一はその祖と称され、日置出羽守光平・常光・越前守宗弘らと共に江戸石堂の名を大いに高めた。中でも対馬守橘常光は、日置を姓とし生国を近江国蒲生郡とする一派の代表工で、従来は光平の兄とされてきたが、年紀作を逆算すると光平の方が六歳年長であり、また常光は橘氏、光平は源氏を名乗っていることから、兄弟であるという通説には疑問がもたれている。一門はやがて各地へ広がり、是一門からは是次が出て九州に活躍し福岡石堂の繁栄をもたらした。紀州にあっては平安城安広が紀州名草郡和歌山に移って作刀し、また備中守橘康広(富田五郎左衛門)が紀州石堂派を代表し、のちに大坂に移って大坂石堂派の始祖となった。河内守康永の門人多々良長幸もまた紀州より大坂に移り、近江には佐々木善四郎一峯らがあって、一派は江戸・大坂・紀州・福岡・近江の各地に系統を伝えた。 石堂派の作風は、御家芸ともいうべき備前伝にあり、映りの立った鍛えに丁子乱れを得意とする点に一貫した特色がある。鍛えは板目つみ、杢・流れ肌を交え、地沸微塵につき、乱れ映りが鮮やかに立つ。刃文は丁子乱れを主調とし、大丁子・頭の丸い丁子・小丁子・互の目・小互の目・尖りごころの刃などを交え、重花丁子・袋丁子をも交えて足・葉よく入り、華やかとなる。常光の作には焼に高低が見られ、焼頭が鎬にかかる程の大出来の丁子を焼くものがあって、古作一文字を髣髴とさせる。安広は互の目・小互の目・箱刃風・尖りごころの刃などを交えて総じて焼高く、棟焼よく入り、金筋・砂流し・沸筋頻りにかかる放胆な焼刃を示す。康広は逆ごころをおびた華やかな丁子乱れを得意とし、長幸は石堂派本来の一文字を狙った丁子乱れの作と、末備前に範をとった腰のひらいた互の目を主調とする作の二様を遺す。総じて匂口の明るく冴える点が、一門諸工に通じる特色である。 評価としては、石堂派は新刀・新々刀の時代にあって備前伝の作風を伝え、丁子乱れの華やかな出来をよく示した点に意義が認められる。常光は焼に高低のある華やかな丁子乱れを焼いて本領を発揮し、その典型作は同工中の優品・最高傑作と称される。安広は長寸・身幅広く重ね厚い堂々たる姿態に放胆な焼刃を加え、新刀を代表する一工としてその技倆が遺憾なく発揮されている。康広は覇気に富んだ作柄を仕上げ、その一口は薩摩国島津家に伝来したものも知られる。長幸は師に優る技量の持主と評され、匂口のふっくらとした出来を遺す。各地に展開しながら備前伝の本領を堅持し、江戸時代初期より長く続いたこの一門は、新刀・新々刀の世にあって備前の作風を伝えた代表的な流派として高く位置づけられている。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト商品到着後7日以内※①商品に手を加えた場合、②海外取引の場合は返品不可となります。
石堂運寿是一は長雲斎綱俊の子(甥とされていたが「石堂是一家文書」で綱俊次男であったことが証される)。文政三年(1820)生れ。天保十二年(1841)跡継ぎのなかった幕府御用鍛冶石堂是一六代の養子となり運寿斎と号し、石堂家の七代目を継いだ。明治二十四年(1891)71歳没。運寿是一は、伊勢神宮、日光東照宮への奉納刀を、また嘉永七年(1854)に米国、安政六年(1859)に英国への贈刀を幕府御用鍛冶として作刀。幕末期を代表する最上級刀工のひとり。本作は、清和源氏白石時敏佩刀の所持銘が刻された長大2尺8寸、安政五年(1858)是一38歳、力漲る会心作。2002年特別保存刀剣審査合格。
















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石堂派は、近江国蒲生郡石堂村の刀工に淵源を有する一門である。慶長から元和・寛永にかけて、これらの刀工は近江よりまず京都へ上り、のちに江戸へ下って一派を成したと伝えられ、これがいわゆる江戸石堂の祖となった。武蔵大掾是一はその祖と称され、日置出羽守光平・常光・越前守宗弘らと共に江戸石堂の名を大いに高めた。中でも対馬守橘常光は、日置を姓とし生国を近江国蒲生郡とする一派の代表工で、従来は光平の兄とされてきたが、年紀作を逆算すると光平の方が六歳年長であり、また常光は橘氏、光平は源氏を名乗っていることから、兄弟であるという通説には疑問がもたれている。一門はやがて各地へ広がり、是一門からは是次が出て九州に活躍し福岡石堂の繁栄をもたらした。紀州にあっては平安城安広が紀州名草郡和歌山に移って作刀し、また備中守橘康広(富田五郎左衛門)が紀州石堂派を代表し、のちに大坂に移って大坂石堂派の始祖となった。河内守康永の門人多々良長幸もまた紀州より大坂に移り、近江には佐々木善四郎一峯らがあって、一派は江戸・大坂・紀州・福岡・近江の各地に系統を伝えた。 石堂派の作風は、御家芸ともいうべき備前伝にあり、映りの立った鍛えに丁子乱れを得意とする点に一貫した特色がある。鍛えは板目つみ、杢・流れ肌を交え、地沸微塵につき、乱れ映りが鮮やかに立つ。刃文は丁子乱れを主調とし、大丁子・頭の丸い丁子・小丁子・互の目・小互の目・尖りごころの刃などを交え、重花丁子・袋丁子をも交えて足・葉よく入り、華やかとなる。常光の作には焼に高低が見られ、焼頭が鎬にかかる程の大出来の丁子を焼くものがあって、古作一文字を髣髴とさせる。安広は互の目・小互の目・箱刃風・尖りごころの刃などを交えて総じて焼高く、棟焼よく入り、金筋・砂流し・沸筋頻りにかかる放胆な焼刃を示す。康広は逆ごころをおびた華やかな丁子乱れを得意とし、長幸は石堂派本来の一文字を狙った丁子乱れの作と、末備前に範をとった腰のひらいた互の目を主調とする作の二様を遺す。総じて匂口の明るく冴える点が、一門諸工に通じる特色である。 評価としては、石堂派は新刀・新々刀の時代にあって備前伝の作風を伝え、丁子乱れの華やかな出来をよく示した点に意義が認められる。常光は焼に高低のある華やかな丁子乱れを焼いて本領を発揮し、その典型作は同工中の優品・最高傑作と称される。安広は長寸・身幅広く重ね厚い堂々たる姿態に放胆な焼刃を加え、新刀を代表する一工としてその技倆が遺憾なく発揮されている。康広は覇気に富んだ作柄を仕上げ、その一口は薩摩国島津家に伝来したものも知られる。長幸は師に優る技量の持主と評され、匂口のふっくらとした出来を遺す。各地に展開しながら備前伝の本領を堅持し、江戸時代初期より長く続いたこの一門は、新刀・新々刀の世にあって備前の作風を伝えた代表的な流派として高く位置づけられている。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
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