宗與は元禄十三年に横谷宗寿の次男として江戸で生まれ、男児の居なかった宗珉の養子となり、享保十七年に四代目を継いだ。明和三年六十七歳にて没。作域は四分一磨地に片切彫のものが多いが、赤銅魚子地に高彫象嵌色絵の作も僅かに残されており、横谷宗珉の後継者としての力感、品格を備えた見事な出来栄えの物を見る。 掲出の小柄は太平記二十三巻の名場面として知られる大森彦七図である。 南北朝時代の武将、大森盛長(通称彦七)は湊川の戦いで楠木正成軍を破る手柄を立てた伊予の武将。ある夜、猿楽に出かけたところ、川を渡れずに困っている女人が佇んでいた。彦七は女人を背負って川を渡る。川の途中急に背中が重くなったので不審に思い、月明かりで川面に映った美女の顔を見ると、なんとそれは鬼の顔。実はこの鬼は楠木正成の怨霊で、彦七に祟りをなそうとするのがこの図の背景となる物語である。 浮世絵に多く描かれ、歌舞伎十八番としても著名な本図は、重要文化財に指定された利寿の作を始め、浜野政随、堀江興成など同時代の奈良派が得意とした感があるが、さすが名人宗與も見事であり、河を廃し、鬼女を睨め付ける彦七という独自の図案は迫力と存在感に満ち、正面から側面に巡らせた高彫と背面の片切彫は彼の真骨頂ともいえる高い技量を余すところなく示している。過去経眼した同作中でも最高の出来栄えを示した傑作である。
横谷宗興は元禄十三年に江戸で生まれ、宗珉の養子となり、享保十八年、三十四歳で家督を継いだ。宗興の作域は四分一磨地に片切彫工法 のものが多いが、赤銅魚子地に高彫象嵌色絵工法の作柄も僅少ながら現存している。片切彫は、師父宗珉譲りの優れた技術を発揮している。ま た魚子地に高彫象嵌色絵の作には、横谷宗珉の後継者としての力量と品格を備えた見事な出来映えのものを多く見る。 本作は宗輿の真骨頂の一作ともいえる作である。細かな技巧が細部にまでいきわたり、ことに鬼の眼と手の動きは秀逸であり、まさに今も動 き出すかの如くである。さらには、手の動きや組み方、また足の動きにも宗輿の技が冴えわたり、肉感的ですらある。 宗興の卓抜した写実力と 抜群の彫技が躍動感のある画面を作り上げた優品である。








宗與
江戸
第65回重要刀装具 (NBTHK)
町彫 · Edo
現在3点販売中
横谷宗与は横谷宗寿の次男で、元禄十三年に江戸に生まれ、実兄に英精がいる。請われて宗珉の養子となり、享保十八年、宗珉没後、三十四歳で家業を継いで名門横谷の家名を守り、晩年は照渓と号した。説明書は彼を、父の作風を伝承して高彫・片切彫ともに上手であり、「町彫と称される多くの金工が輩出した中で、やはり群を抜いた存在であった」[[c:1]]とする。
説明書によれば、「宗與の作域は四分一磨地に片切彫工法のものが多い」[[c:2]]。宗珉の創始した片切彫である。朧銀磨地の竹虎図鐔は宗与得意の造込みと彫法で、説明書は大胆で力強い片切彫に繊細な毛彫を配した鏨使いを称える。赤銅磨地の牡丹に獅子図鐔では、広狭の鏨を使い分け、力強い片切彫と繊細な毛彫を併せ、耳の紗綾文の金平象嵌が単調な画面に色取りを添えるとする。脇指拵は金具のすべてを宗与の手とし、福神の画題で統一し、鐔・縁頭・小柄を四分一磨地の片切彫とする。
もう一方は赤銅魚子地に高彫象嵌色絵の作である。説明書はこの種の作を「僅少ながら現存している」[[c:3]]とし、その中に「横谷宗珉の後継者としての力量と品格を備えた見事な出来映え」[[c:4]]のものを多く見るとする。宗珉よりはじまる同派得意の横谷獅子は、獅子図二所物にあらわれる。瑞雲に麒麟図小柄は大きな麒麟が天に駆け上る姿を表し、大森彦七図小柄と福禄寿図小柄はいずれも宗与の真骨頂の一作とされ、人物の眼や手は今にも動き出すかのようである。馬図鐔は師宗珉の馬図を忠実に継承し、八駿馬図鐔は目に金を施すのみの赤銅一色で写生力を示し、その耳は後に夏雄が補っている。
最も充実した作は牡丹獅子図揃金具(鐔・縁頭・目貫)で、昭和三十五年に重要、昭和五十三年に特別重要に指定された。両説明書ともその稀少を強調し、高彫の鐔は「宗与の作としては極めて稀」[[c:5]]であり、大形でよく揃うことからおそらく彼の傑作であろうとする。別の一組は制作の記録を伴う。麒麟図の小柄と目貫には宗与自身の折紙が添い、宝暦十三年の作で、目貫がまず十月に、小柄が十二月に完成したことがわかる。
銘は宗与(花押)と楷書で力強く切り、目貫には短冊銘とする。説明書は終始彼を宗珉を通して読む。獅子・馬・片切彫はいずれも父から受け継いだものであるが、這龍図小柄では家彫の伝統の彫技に「町彫の斬新さを加味して独自性を強調している」[[c:6]]とする。
指定を受けた作は十三点で、特別重要刀装具一点、重要刀装具十二点である。瑞雲に麒麟図小柄の一本は陸奥国津軽家に伝来した。片切彫の作はやや多いが、高彫の宗与の揃金具が世に出ることは稀である。
宗與の位置づけを、日本刀全体および伝法・時代・時期ごとに示します。各区分(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
町彫 · Edo
現在109点販売中
横谷派は、江戸時代中期に横谷宗珉によって創始された装剣金工の一派である。宗珉は従来の後藤家の伝統的技法に加え、片切彫という新たな彫刻技法を確立し、四分一磨地に繊細な線刻表現を施す独自の様式を生み出した。その後、養子である二代宗興が享保十八年(一七三三)、三十四歳で家督を継承し、横谷派の技術的頂点を築いた。宗興は元禄十三年(一七〇〇)江戸生まれで、師父宗珉より優れた片切彫の技術を継承しつつ、赤銅魚子地に高彫象嵌色絵を施す作風も展開した。 宗興の作域は四分一磨地に片切彫を施す作柄が多数を占めるが、赤銅魚子地に高彫象嵌色絵を用いた作品も僅少ながら現存しており、いずれも横谷宗珉の後継者としての高い力量と品格を備えた見事な出来映えを示している。片切彫の作では、師父宗珉譲りの卓抜した技術を遺憾なく発揮し、細部にまで行き届いた精緻な彫刻表現において他の追随を許さない。高彫象嵌色絵の作では、人物の表情や手の仕草、衣の襞に至るまで丁寧かつ写実的に表現され、空間を巧みに利用した構図の計算性も高く評価される。福禄寿図や大森彦七図などの作品に見られる肉感的な描写と躍動感は、宗興の卓越した写実力と彫技の冴えを示す真骨頂といえる。 横谷派の技術は、宗興の門人である三宅英光(自立軒)や桂永寿らによって継承され、江戸時代後期まで高い水準を保った。英光は肥前長崎の出身とされ、横谷四代目宗与の門人となり江戸京橋に住して、赤銅魚子地に高彫金色絵の豪華な作風を展開した。桂永寿は久留米有馬藩の抱工として、目結や家紋を配した格調高い金具を制作し、大名家の儀式用拵に用いられた。横谷派の作品は、片切彫という独自の技法と、写実的かつ精緻な表現力によって、装剣金工史において重要な位置を占めている。 詳しく見る →
特別保存刀装具の中から、特に出来が優れ、美術工芸的価値が極めて高く、国認定の重要美術品に準ずると判断されたものです。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトお客様都合による返品は作品到着後二日以内にお申し出ください。※お品物に手を加えた物等は対応できません※返品送料はお客様のご負担となります※お品代以外の費用(振込手数料、代引手数料等)は返金できません。※お届け先が海外の場合は返品や返金は出来ません