説明

Wakizashi Signed Bizen Osafune Morimitsu February in the 18th year of Oei (1411) Accompanied by a black lacquer kizamisaya koshirae Together with Yasumitsu, Morimitsu defined the “Oei Bizen” smiths of the early Muromachi period. At first glance, the style is reminiscent of the Ichimonji School in the Kamakura period. However, Oei Bizen is commonly characterized by a slightly pronounced itame and mokume grain with a degree of chikei, a broad midare hamon, a boshi which protrudes at the point (candle style), and a straight utsuri. There are also examples with a quiet straight suguha hamon. This piece features a slightly pronounced itame and mokume grain, small jinie, and a broad gunome hamone with choji, togari, deiri, ashi, yo, nioi, and small nie. The sayagaki by Homma-sensei notes that this is a well-executed and typical piece by Morimitsu, with a bright and clear nioiguchi. The accompanying koshirae which likely dates from the late Edo period is adorned with the tomoe crest, and includes a remarkable dragon kozuka which adds to the dignified appeal. Wakizashi Signed Bizen Osafune MorimitsuFebruary in the 18th year of Oei (1411)Accompanied by a black lacquer kizamisaya koshirae

Wakizashi Signed Bizen Osafune Morimitsu
売切れ
Tokuho売切れ

Wakizashi Signed Bizen Osafune Morimitsu

脇差

売却済

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仕様

長さ

45.9 cm

反り

1.3 cm

元幅

2.7 cm

先幅

1.92 cm

作者について

Oei-Bizen Morimitsu盛光

3 重要文化財1 重要美術品4 御物5 特別重要刀剣48 重要刀剣

修理亮を称した長船盛光は、康光と並んで、室町初期の備前鍛冶を総称していう「応永備前」の双璧に位置する。応永年間(一三九四〜一四二八)、南北朝末期に流行した大太刀がすたれた後、長船の地には盛光・康光・家助・経家ら格調の高い作風を示す刀工が現れて一派を再興し、応永十二年紀の太刀の説明書は彼を、康光と並んで「技術が最も充実した工」と記す。銘鑑は彼を長船師光の門と伝え、一説に師光(師光)の子とする。年紀作は多く応永年間に密に分布し、最古の作を明徳五年(明徳五年)=一三九四年紀の太刀とし、その干支は応永の初年から二十年代に亘る。 応永備前の刀工が志した理想は鎌倉時代への復古にあり、説明書はその作が一見、一文字派や光忠・長光の古長船を想わせるとする。優美な太刀姿と、復活させた丁子刃にそれが窺える。だが盛光、ひいては一派の個性は別の所に現れる。本領かつ典型の手は、腰で広く開く互の目(腰開きの互の目)を基とし、これに丁子・小互の目・角張る刃や尖りごころの刃を交えた、大模様で華やかな乱れ刃である。足・葉さかんに入り、匂主調に小沸つき、金筋・砂流し細かにかかり、時に玉状の飛焼を交え、匂口は明るい。その互の目・丁子の頭はゆったりと丸く焼かれ、説明書はこれを盛光の見処とする。ある太刀には「頭の丸い丁子」が看取されると記し、白眉とすべき一口には乱れの頭が「いかにもゆったりと丸い」とあって、ここに同工の本領が顕著に現れる。乱れの頭が尖りごころとなる康光に対し、これが収集家の引く分かれ目である。 地鉄は板目に杢を交え、流れごころを帯びて肌立ち、地沸つき、大作では地景風のかねを織り交える。これに映りが立ち、多くは乱れ映りだが、一派の特色として棒映り、すなわち刃に沿った直ぐ状の映りも頻りに見え、穏やかな作では刃寄りに鮮明な直ぐ状の映りが立つ。帽子は乱れ込んで尖り、その舌状の先を説明書は「ローソクの芯」と称し、応永備前の特徴的にして決定的な帽子として繰り返し採り上げる。彫物もまた一定の見どころで、棒樋に添樋を伴い区上で丸止めにするのが一派の見どころであり、腰元には説明書が長光・景光以来とする長船物の刀身彫の伝統を承けた宗教的な彫、すなわち梵字・三鈷剣・護摩箸・倶利迦羅(倶利迦羅)や、「八幡大菩薩」(八幡大菩薩)などの神号を刻む。 説明書は盛光に二つの手を認める。華やかな乱れと並んで穏雅な直刃を記すが、これは中直刃・細直刃の小沸出来で、匂口締まりごころに明るく冴え、僅かに小互の目・逆足を交え、刃縁はほつれて喰違刃ごころとなることがある。帽子は直ぐに小丸、先やや尖りごころに返る。この第二の手を説明書は盛光には比較的少ないとし、ある脇指の説明に「康光に比して、盛光には直刃の作例は少ない」と明記する。これが双璧を分かつ第一の見どころであって、盛光はより丁子に富んで華やかな手、康光はより穏やかな直刃に傾く手である。第三に、最も年代の溯る作から時代の相を引く。明徳五年の太刀や応永初年の作は小模様で、互の目に小のたれや種々の刃を交えて前時代の小反り一類に近く、銘振りも小さくつまり、説明書はこれらを小反りから応永備前へ移行する過渡的な資料として貴ぶ。 その直刃の手が最も古調に傾く所では鎌倉末期の長船物に接し、説明書はある太刀を「一見すると景光や雲類等をおもわせるが、帽子が異っており」、これこそ応永備前独得のものとし、別の一口を粗見すれば鎌倉末期の長船物や雲類に見紛うほどとする。逆足・葉を交えた直刃は一見青江を想わせもするが、ここでも肌立つ板目・杢と先反りの姿によって極めは盛光に定まる。系は下方にも閉じ、盛光の名は続いて、年紀作は応永から文明に亘る。ある太刀の説明は「その作刀にみる年紀は応永から文明に亘っており、その間、初、二代が存在する」と記す。記録に遺る作は大半が応永の初代=修理亮であり、盛光は康光と並んで末備前が範とする標準として、腰開き互の目とローソクの芯の帽子を後の室町の備前主流へと伝えた。 藤代の極めで上々作。その名を負う指定の重みも大きく、重要文化財三口を戴き、特別重要刀剣五口・重要刀剣四十八口、特別重要刀剣と重要刀剣を併せて五十三口を数える。太刀・刀・脇指・短刀のそれぞれに上手な作を遺し、比較的多くの作品が伝わる。説明書は数口を白眉とし、ある太刀を「盛光中の白眉」と称して紀州徳川家の伝来品とする。その作に録された来歴には格の高い名が連なり、紀州徳川家・秋元家・南部家・佐竹家、皇室、また談山神社・靖国神社の社蔵がある。数口は重要文化財の級に永く封ぜられて市に出ることはない。市に出うるものとて、その特別重要刀剣・重要刀剣は公私の旧蔵に永く伝わる文化財であり、市に現れるのは折にふれてのことに過ぎない。応永備前の代表工としてその作は根気強い収集家の手の届かぬものではないが、容易に見出せるものでもなく、修理亮の在銘・年紀の盛光が市に現れることは、その都度ひとつの出来事である。

刀剣商

銀座盛光堂

ginzaseikodo.com

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