説明

出ました出ました初代河内守藤原国助の銘振りから重要美術品の作品が出た寛永19年頃(1642年)(384年前)の素晴らしく貴重な名刀が出ました。初代国助は織田信長の三男織田信孝の近習であった父小林甚兵衛の子供で、本能寺の変で織田信長没後天正11年(1583年)(443年前)織田信孝が柴田勝家と共に豊臣秀吉と戦い信孝の居城岐阜城が落城の時には主に殉じようとした忠臣27名の一人でした。本刀の作者初代国助は信孝の忠臣小林甚兵衛の長男で武士の出身です。生国は三重県伊勢神戸で後に京山城の巨匠堀川国廣の門に入り刀匠となります。後には和泉守藤原国貞と共に手を携え大坂に移住して大坂新刀の開拓者となり大坂新刀の祖となりました。本刀の姿は元身幅と先身幅の差の有る反りの浅い良い刀姿を現し、地金は小板目肌が良く詰んで地には細かな地沸がついた大坂地金を力強く鍛え、刃紋は師堀川国廣の手癖と言われる元から水影と言われる映りを棒状に斜めに現し匂い出来に小沸の付いた直調の覇気有るのたれ刃を焼いて趣が有り見事です。初代国助の子供には新刀一文字と言われる二代目河内守国助がおり、一門に最上大業物の作者ソボロ助廣がおり、その子供が大坂新刀の横綱と言われる津田越前守助廣が出現した素晴らしく豪華な一門を作り上げた巨匠です。しかし出身が武士の出の為に刀剣の制作数や販売に重きを置いていなかった為か現存作が素晴らしく少なく本刀は貴重です。江戸期の拵えも本初代河内守藤原国助の名刀に一層華を添えています、この度初めて世の中に出た為に特別に超格安価格でご提供いたします。大坂新刀の祖、初代河内守藤原国助の名刀を是非お楽しみください。

河内守藤原国助 Kawachinokami Fujiwara Kunisuke
Tokuho

河内守藤原国助 Kawachinokami Fujiwara Kunisuke

¥1,800,000

世界81社の刀剣商を横断追跡 · 価格履歴 · 売却アーカイブ

仕様

長さ

71.1 cm

反り

1.1 cm

元幅

3.04 cm

先幅

1.88 cm

作者について

Enju Kunisuke國資

1 重要文化財4 重要美術品1 特別重要刀剣16 重要刀剣

延寿国資は肥後国菊池郡隅府に住した延寿一派の上手で、鎖倉末期から南北朝期にかけて活躍した。通説に神太郎国村の子と伝え、国村は山城の来国行の外孫と伝えるから、国資は肥後に移した来の山城風を継ぐ延寿二代にあたる。子薄には隅府と記され、嘉曆二年紀の短刀がその活躍期を定める。延寿一門は年紀作が少なく、この短刀の嘉曆年紀は好資料とされる。説明書は一派を際立った個性の少ない一様の作風と読み、その中で国資について繰り返し一つの判断に立ち返る。すなわち現存作を通観するに、一門の中でも「かなりの腕利きであった」と説き、国時・国泰とともに一派最強の手の一人とする。同名は技術を減じつつ室町期まで二三代続き、NBTHKは一括して扱う。 一様な一派の中で国資を分かつのは、刃中の働きの豊かさである。一派の刃が穏やかな中直刃・細直刃で刃中の働きが静かなのに対し、国資は一門最も働く手である。直刃を基調に小互の目・角がかった互の目を頻りに交え、よく汸づき、砂流し・金筋・汸筋がかかり、匀口は時に沈み時に明るむ。説明書はその違いを種類でなく程度に見る。ある大磨上無銘の刀については、「常よりも一段と砂流しがはげしく」、互の目が尖りごころとなり、同派には珍らしい出来と評する。この働く刃の上に、判者が国資独自のものとする見どころがのる。身幅広く寸延びた脇指・短刀にて、帽子が焼深く烈しく火焰風に乱れ込み、突き上げて表は火焰となる。特別重要の脇指について説明書は、この焼深く烈しい火焰風の帽子を「同工および同派の中でも類がない」と明記する。 鍍えはつんだ板目・小板目が柾ごころに流れ、時に杢を交え、身幅広い作では地がやや背立ち、その背立ちが働く刃に通じる。地には地汸が微塵に厚くつき、地景が細かによく入り、一派の淡い白け映りが立つ。穏やかな作の帽子は直ぐに小丸あるいは丸味の大きい大丸となって返り浅く、先に掃きかけるものが多い。母体の来派に対し、説明書は相違を柾ごころと白ける鍍、匀口の沈みごころ、穏やかな刃中の働き、丸味の大きく返りの浅い帽子に定め、同派の見どころとする。国資はこれらをすべて示し、立つ地は既出の一門中で一段厚い。 現存作は二つの register に分かれる。一つは南北朝期の華やかな作で、身幅広く寸延びた脇指・短刀、すなわちその大振りで反りのついた姿から南北朝の作と見られ、働く刃と火焰風の帽子を見せる。二つは穏やかな作で、腰反り深く小鐂の細身の生ぶ太刀、および輪反り深く京の風情を残す大磨上無銘の刀である。ある小板目のつんだ明るい中直刃の大磨上無銘の刀について、説明書はその出来を「京物に似通う作域」とし、技術の高い国資の極めが正しいとする。またある太刀には、同派の短刀に見る刃取りを見せる一派に少ないものがあると説く。銘そのものも見どころで、延寿諸工中で国資は二字を最も太く切り、「同派の中でも最も太鏨にきり」、一派の多くが「国」字の国構右側を耳形風に切るのに対し、国資はそれが顕著とならない。いずれも説明書が重ねて挑げる国資の手の見どころである。 国資は種類でなく程度によって一派の中に識別され、説明書は彼を来への近さで位置づける。朱銘短刀は一派の要を述べる。すなわち「一見来国光などに見える」のは、延寿派の祖国村が来国俊の門と伝えることを裏書きすると判者は読む。細身の太刀や輪反りの刀に京の風情を残すことは来の側から系譜を閉じ、働く刃と唯一の火焰風の帽子は、彼の代までに一派の進んだ距離を示す。作の一部は同派の資料上の興味を伝える。佩裏に銘を切った薓刀直しがあって同派に稀であり、また磨上の際に切断された在銘の莖先を額銘として遗した一口がある。延寿の諸工の中で、判者は国時・国泰とともに国資を一派の首に置き、立つ地、最も働く刃、そして身幅広い作の火焰風の帽子が、一様に読める一派の中で彼を際立たせる。 藤代の極めで上々作。特別重要・重要の列に十七口、重要美術品に一口を数え、生ぶ在銘の作例が残ることそれ自体が説明書に貴ばれ、とりわけ年紀の短刀が彼の編年を定める。その作に録された來歴は地方の刀工としては格別で、豊臣秀吉・徳川家康の手を経、細川家・伊達家・上杉家・徳川家に伝来する。田安徳川家伝来の太刀には、大正八年に伯爵徳川達孝が由緒を認めた記録があり、それによれば秀吉より竹中采女が拝領し、徳川家康に献じ、水戸頼房の遺物として幕府に上り、八代将軍吉宗の子宗武が田安徳川家を起こすにあたり拝領したと伝える。指定を受けた作のうち、佐野美術館・静嘉堂文庫美術館・徳川美術館・大山祇神社に蔵されるものがある。個人収蔵家にとって国資は肥後鎖倉の名の中では比較的手にしやすい方で、多くが国宝・重要文化財の級に封じられず取引可能な特重・重要の列に残るが、それでも大半は保有されて取引されず、生ぶ在銘で年紀あるものや火焰風の帽子を見せる寸延びの一口が市に現れることは稀で、現れれば一つの画期となる。

刀剣商

明倫産業

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