堀江興成は、はじめ浜野政隨に学び、益隨と称したが、明和六年、二十歳代の時に師政隨の死にあい、その後、改めて大森英秀の門に入った。そして師家の一字を許されて英俊と改めたが、後藤系の尾崎直政の弟子分ともなり、独立後は興成と名乗ったという。後に阿波蜂須賀家の抱え工となり、一門の子弟を多く養成している。活動期は江戸時代中期から後期にかけてと見られる。
作風は、赤銅魚子地を高彫、色絵、象嵌で飾る作が多い。総じて後藤風の格調高い作風を基調とするが、町彫の斬新さも加味されている点が特徴である。金無垢を用いた目貫も手掛けており、容彫で意匠を凝らした作例が見られる。また、金と赤銅の魚子地を割継ぎにするなど、洒落た造形を見せる作もある。大小鐔においては、赤銅磨地に高彫色絵、象嵌の彫法で濃艷細緻に物語の一場面を表現している。
堀江興成の作は、後藤風の格調高さに加え、浜野派や石黒派の技法も取り入れ、その全能力を傾けたものが認められる。高彫色絵裏哺金の彫法を駆使し、図取り、肉置きに斬新さが加味された作は、調和の中に雅びな趣が湛えられていると評される。晩年の作では、後藤家の作風を模しながらも、その技量には見るべきものがあるとされる。阿波蜂須賀家の抱え工として、一門の子弟を多く養成した点も特筆される。