永則は備前吉井派の刀工で、説明書は本工を永享(一四二九-四一)・長禄(一四五七-六〇)の頃に置き、清則の子と記し、のち出雲へ移住したとの伝えを添える。吉井派は鎌倉後期の為則を祖として始まると伝えるが、その頃まで遡る作は極めて稀で、南北朝から室町時代にかけて、長船本流に統合されなかった唯一の備前の支派として繁栄した。本工の指定作は四口いずれも太刀で、永則の二字銘のみを切り、鎬造・庵棟または三ツ棟に中鋒がつき、茎は最初期の作で生ぶの栗尻、最後の作で磨上の切りとなる。これらは一派の室町前・中期の姿を定める作であり、その一口について説明書は、よく整った地鉄と立った乱れ映りが、一見「一時代を遡る備前刀に見える」とし、その錯覚を解くのは室町姿を示す先反りのみであると記す。
認められる吉井の手は二様に分かれ、永則はその両様を打つ。説明書は一派の作風の大きな特徴を、小互の目が規則的に連れる刃文とし、「吉井派の作風は、小互の目が規則的に連れる刃文に大きな特徴があり」と述べる。この手の最も完備した例である第四十回の太刀は、その小互の目を規則的に連れて焼き、角張る互の目・尖り刃・腰の開いた互の目を交え、匂主調に小沸つき、処々光の強い荒目の沸を交えて、金筋・砂流しが刃中にかかる。帽子は乱れ込んで小丸に返り、沸強く先を掃きかける。いま一様は細直刃で、それ自体は尋常、説明書が則光などの作にも見えるとする類だが、そこに小互の目が僅かに交じる。その交じりについて説明書は「小互の目の交じるところは吉井派の特色といえよう」と記し、最も静かな刃文すらそこに畳み込まれた互の目をもって吉井と読む。
刃文の下の地鉄は、よくつんで詰んだ小板目で、地沸つき地景入り、直刃の太刀の一口では刃寄りに柾ごころを交えて総体に肌立ちごころを呈する。その上に一派は備前物中独特と説明書が呼ぶ映りを立て、説明書はこれを「映りはその焼刃の形がそのまま影となって地に映じたような独特のものである」と記す。すなわち映りは、長船本流の柔らかな雲のような乱れ映りのように漂うのではなく、焼刃の輪郭をそのまま繰り返すように見える。直刃の作では、つんだ板目に細かな地沸つく地に映りが淡く立ち、匂口は締まりごころ、あるいは沈み、小足入り僅かに金筋かかる。連れた互の目の太刀ではより鮮やかに立ち、静かな作には見られぬ荒沸と砂流しを伴う。彫物は表裏に棒樋を掻き、最初期の太刀では茎に添樋を掻き通し、銘は佩表の棟寄りに切る。
この二様は鑑定上分けて把えるのがよい。同じ工が華やかな連れた乱れと静かな細直刃を打ち、説明書自身、吉井の作風を連れた互の目の出来と直刃に大別すると記すからである。生ぶで太刀銘の初期の太刀はその中間に座る。小互の目が小のたれ・丁子を交えてやや乱れて連れ、つんだ小板目に乱れ映りが鮮やかに立ち、まさにこの組合せが古い備前刀のように見せる。応永以降の吉井物は、永則も同派の工も現存稀少であり、その稀少のゆえもあって説明書は残る太刀をその時代を代表する作として貴ぶ。銘鑑には永則がのち出雲へ移ったとの伝えがあり、同国には後代の永則が数工あって伝えに符合し、備前にあってはその名が清則ら他の年紀の手とともに後の室町期の吉井へと続く。
永則を室町中期の備前の広い作群から分かつのは、力や華やかさではなく、その自身の作が担う吉井固有の組合せ、すなわち刃文が直刃に静まるところにあってもなお見られる、映りの上の規則的な小互の目である。説明書は本工の作に一派の特色が十分に現わされているとし、直刃のみなら則光風の尋常な直刃と紛れるところを、そこに交じる小互の目と背後に立つ影のごとき映りが、極めを吉井へと引き戻す。本工は、父清則、また古吉井の盛則らとともに、一派の室町前・中期の作風を伝える在銘の知れた手の一人として、壮大な伝来に担われる名ではなく、資料的な拠り所として読まれる。
永則の作は僅かな在銘の太刀に残り、その四口が第十回・第二十二回・第二十四回・第四十回の重要刀剣に指定され、最も古い指定は一九六三年、最も新しい指定は一九九四年にあたる。藤代の評は本工を中上作とし、一派の手の平均を上回る位置に置く。説明書が最も温かく評するのは第四十回の太刀で、地刃ともに健全とし、「地刃ともに優れている」と記す。本工の作にはより上位の指定もなく、また大名伝来の記録も伴わぬため、その作は鎌倉の大名物が占める美術館の御物ではなく、重要刀剣上位の作域に属する。記録に残る所持では、その豪壮な大太刀が徳川美術館に蔵され、指定の太刀は岡山・長崎・愛知・東京の私人の手を経てきた。私人の蒐集にとってこれは、僅かに残る在銘の吉井永則が市場に現れる時、手の届かぬものではなく入手しうるものであることを意味するが、その出現は時折に過ぎず、忍耐に報いるものであり、名の重みよりも、室町前・中期の吉井の手をその最もよい姿で伝える在銘の作であることにこそ、その価値がある。