山浦真雄は、文化元年(1804)信濃小諸赤岩村に、郷士山浦信風の嫡子として生まれた。弟は幕末相州伝復興の名工源清麿である。本名を昇といい、文政十二年(1829)二十代の頃、清麿とともに上田藩工河村寿隆の門に入り、両兄弟は同じ道を歩み出した。はじめ完利・寿昌と銘し、のち正雄・真雄となり、晩年にはさらに寿長と改銘した。寿昌時代には「天然子」の号を、最も長い真雄時代には「遊射軒」などの号を用いている。長命を保ち、明治七年(1874)七十一歳で歿した。説明書はその展開を繰り返し一文に定める。「作風は清麿と同じく、寿隆風の丁子に始まって相州伝に転じている」と。
円熟期の相州伝こそ、説明書がその得意の相州伝と呼ぶ領域であり、指定の拠るところである。板目地に互の目をのたれ・小のたれを交えて焼き、沸厚く荒沸を交え、足・葉入り、砂流し・金筋をさかんにかける。砂流しは記録される大半の作に現れ、金筋が相州伝の手法でこれに従う。帽子は乱れ込んで尖りごころに返り、時に小丸となり、最も豪壮な作では先にさかんに掃きかける。初期の丁子の名残は後年の作にも「僅かに丁子風の刃交じり」として残り、二つの相は截然と分かれず、一方より他方へと移ろう。
地鉄は地沸が総体に厚くつき地景を交える板目で、時に杢・大板目を交え、鎬寄りに流れ肌へと転じる。説明書はまさにこの地において弟と率直に比べ、「清麿に較べて地には地景が刃中には砂流し・金筋が少なく出来が及ばない」と記す。されど優作にあっては同じ働きが力を増し、ある晩年の刀について「金筋・砂流しの働きも同工の作としては常以上に豊富であり」と評し、「地景を頻りに交えて地沸の厚くついた強い鍛えがよく」と、地景を繁く交え地沸厚き強い鍛えを称える。
二つの手は説明書の描く展開に応じ、また造込にも応ずる。初期は寿隆風の丁子で、地沸のよくつく板目地に互の目を交えた丁子乱れを焼き、匂口明るく冴えて小沸つき、帽子は乱れ込んで小丸となる。ある刀については「この刀は真雄の本領が発揮された一口であり、鍛えが非常によい」と記される。円熟の相州伝は刀のみならず脇指の領域でもあり、その典型の器がふくらの枯れた菖蒲造の脇指である。ある脇指について説明書は「これは同工によく見られる姿であり」と述べ、「ふくらの枯れた姿にも同工の特徴がよく表われている」と、その枯れた姿にも同工の特徴がよく表われていると記す。銘は文献の伝記をそのままなぞり、正雄・真雄の読みより注文作の正式な山浦昇源正雄に至る長銘が連なる。
真雄の位置は弟と師によって定まる。彼は山浦家の長として、また清麿一門の長老格として立ち、同じ教えを受け寿隆の丁子より相州伝復興へと同じ道を辿った兄であり、説明書は両兄弟を当然のごとく比べ、その地刃が清麿に及ばぬところを記しつつ、彼自身の強く沸づいた鍛えを認める。その特色は比較によらず自らの根拠ある作域に拠る。板目の地沸厚く地景頻りなること、相州伝の砂流し・金筋の力強きこと、繰り返し現れる尖りごころの乱れ込み帽子である。身幅広く大鋒の一口にあっては、説明書は造込を豪壮と呼び、その全体を「極めて覇気にみちた作である」と評する。
収集の観点では、真雄は幕末新々刀の名で、その記録は上位の指定よりも重要刀剣の列を通る。国宝・重要文化財の格はなく、記録される六口はいずれも重要刀剣である。遺る来歴は慎ましく私的で、彼が仕えた信濃の士の注文であり、嘉永二年(1849)青木安栄のために鍛えた一刀もその一つで、説明書は端的に「この刀は青木安栄のために作刀したもの」と記し、その地刃を同作中出色と評す。清麿の兄として、その弟の作が稀に世に出て固く守られるのに対し、真雄は山浦工房と相州伝復興への入口を、絶えてではなく時に市場へと開く。在銘の重要刀剣の脇指・刀は根気をもって現れ、沸づきよく金筋・砂流しの十全な優作は、幕末の名工を集める者にとって有力な入手となる。