説明

特別保存刀剣鑑定書付 刀 銘 五島源正陰(慶応二年十二月日) 【解説】 本作は慶応二年(1866年)十二月に、五島源正陰によって打たれた一振りです。 正陰は、幕末の名工として名高い源清麿の門人、鈴木正雄(源正雄)の弟子であり、清麿の孫弟子にあたります。越中(現在の富山県)に五島小助として生まれ、江戸にて正雄に師事した後、水心子正次のもとでさらに技を磨きました。後に越後高田城下で作刀を行い、激動の幕末期における需要に応えましたが、明治の廃刀令により惜しまれつつもその職を辞しました。 銘には「源正陰」「正陰」「玉心斎正陰作」「五島源正正陰」などがあり、清麿伝来の華やかな作風を継承したその作品は、将来性が期待される優品として高く評価されています。 源清麿 ―「四谷正宗」 源清麿(1813-1855)は、幕末期における最高峰の刀工の一人として知られています。信濃国小諸藩赤岩村(現在の長野県東御市)の郷士の家に生まれ、本名を山浦内蔵助環といいます。 兄である山浦真雄に学んだ後、江戸へ出て兵学者の窪田清音の道場に入門しました。窪田はその作刀の才能をいち早く見抜き、清麿が作刀に専念できるよう尽力しました。清麿は諸士から名刀を借り受けて古名作を直接研究し、実戦に耐えうる強靭な刀の再現に心血を注ぎました。 彼は水心子正秀が提唱した「刀剣復古論」に強く共鳴しました。これは、当時の反りの浅い華奢な刀姿に対し、鎌倉時代の質実剛健な姿への回帰を説いた運動です。この理論の影響は極めて大きく、日本刀の歴史において正秀以前を「新刀」、以後を「新々刀」と区分する基準となりました。 水心子正秀、大慶直胤とともに「江戸三作」と称えられた清麿は、後に江戸四谷に居を構え、相州伝と備前伝を融合させた独自のスタイルを確立しました。その沸(にえ)の美しさと、豪壮で雄大な姿は「正宗の再来」と絶賛され、今日まで「四谷正宗」の異名で語り継がれています。 清麿は酒害による衰えから、42歳の若さで自ら命を絶つという悲劇的な最期を迎えましたが、その劇的な生涯と卓越した技術は歴史に深く刻まれています。現在、清麿の刀は幕末の精神と芸術性を体現する至宝として、市場でも極めて高く評価されています。 水心子正秀 水心子正秀(1750-1825)は、江戸時代後期の刀剣界に革命をもたらした重要な人物です。 当時の主流であった刀は、鎌倉時代の名作に比べ、反りが浅く実戦的な力強さに欠けるものでした。正秀は古名刀の研究を通じて当時の作刀の限界を感じ、刀工は古の鍛錬法に立ち返るべきであるという「刀剣復古論」を提唱しました。この理論は当時の刀工たちに深く浸透し、やがて作刀界の主流となりました。

Antique Japanese Sword Katana Signed by Minamoto no Masakage NBTHK Tokubetsu Hozon Certificate
Tokuho

Antique Japanese Sword Katana Signed by Minamoto no Masakage NBTHK Tokubetsu Hozon Certificate

$12,470

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仕様

長さ

74.8 cm

反り

2 cm

流派について

Kiyomaro School清麿派

清麿一門は、十九世紀中頃の江戸に興った新々刀の一派で、相州伝の豪壮な復興をその核に据える。中心に立つのは山浦清麿で、文化十年信濃小諸赤岩村に郷士信風の次男として生まれ、はじめ内蔵助環と称した。上田藩工河村寿隆に鍛刀を学び、初銘を正行とし、一時師より贈られた秀寿と銘したのち同年のうちに正行へ復している。天保六年、兵法家として名高い幕臣窪田清音の後援を得て江戸に出で、天保十三年から一年を長州萩で送り、弘化二年に再び江戸へ戻って、翌三年秋に四谷伊賀町に住して銘を清麿と改めた。相州伝を得意とすること甚だしく、世に四谷正宗と称せられた。その糾合した門には、信濃以来の同じ道を歩んだ兄真雄、越後三条より鏡師を廃して入門した栗原信秀、羽州庄内より出府して師の刀債を後に完済した斎藤清人らが連なり、嘉永七年の清麿自刃の後も、その相州復古の手は幕末から明治初年へと伝えられた。 一門を貫く語法は、五百年を遡って相州に通う沸本位の作風にある。やや肌立つ流れごころの板目をよくつめ、地沸を微塵に厚く敷き、地景頻りに入って鉄が冴え、映りはない。その上に互の目乱れに小のたれを交え、沸厚く処々荒めに叢立ち、長い金筋と盛んな砂流しが頻りにかかる覇気ある刃を焼く。帽子は乱れ込み、尖りごころに掃きかけて返る。この共通の地刃の内に、各工の手が分かれる。清麿は志津三郎兼氏を仰いだ志津伝を得意中の得意とし、その地沸・地景の厚さと荒沸の富みにおいて一門を圧して、菖蒲造・冠落造の脇指や短刀に華やかな乱れを見せる。信秀はその志津の調子に最もよく迫った手で、説明書はその技を一門中最も師に迫るものとし、互の目に尖り刃・角互の目を交えて砂流し・金筋を頻りにかけるが、覇気と迫力は師に遠く及ばないとも率直に記す。彼ひとりの見どころは鏡師の修業に発する彫物で、草の倶利迦羅・珠追竜・竜乗り観音など多彩な図柄を刻み、一派中で彫物を伴うのは彼の刀のみである。真雄は寿隆風の丁子に始まって相州伝に転じた弟と同じ展開を辿るが、説明書は地景・砂流し・金筋がやや少なく出来が清麿に及ばないとし、なお優作では地沸厚く強い鍛えを称える。清人は頭の丸い互の目を主調に長い足と豊かな沸を保って師風を忠実に継ぐ一方、清麿には見られぬ大和伝の直刃を独り保ち、よくつんだ小板目に微塵の地沸を敷いて地刃の冴えた直刃を焼く。 鑑定の勘所は、まずこの相州への遡りにある。同時代の新々刀工が備前の丁子や虎徹の詰んだ地鉄を写したのに対し、本一門は地沸・地景厚く荒沸に富み金筋・砂流し頻りなる地刃を、借りものの模様によらずその力強さと明るさによって示す。姿もまた手がかりで、身幅広く元先の幅差少なく、鎬幅狭く平肉つかず、大鋒の延びてふくらの枯れた豪壮な体配が一門独特のものとされる。位列にあって清麿は晩年のあらゆる刀工の中でも最も人気の高い一人で、藤代はこれを最上作とし、真雄を上作、信秀・清人をこれに次ぐ手とする。国宝・重要文化財はなく、その地位は今日の指定の級と僅かな来歴に拠る。来歴は広汎というより確かで歴史に響くもので、清麿の作は岩崎家と静嘉堂文庫、後援者窪田清音、大小を註文した松代藩士、剣客中条金之助の手を経、信秀の片切刃の脇指は将軍慶喜への献上と伝え越後三条の八幡社にも伝わり、清人の一口は亡師の遺志を託されて稜威尾羽張の神号を刻む。多くは伝えられて市場には出ず、在銘の作が世に現れるのは時折に限られるが、年紀を備えたその一口は、相州が江戸に甦った瞬間を語る証として、新々刀を集める者の前に立つ最も報いある手の一つである。

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