説明

千子村正 商談中(Hold) 鑑定書:日本美術刀剣保存協会(NBTHK)保存刀剣 【銘】 村正(Muramasa) 【解説】 文亀(1501-1504)頃、伊勢。 銘には「村正」の二字銘のほか、「右衛門尉村正作」「勢州桑名住村正」「桑名住村正」などがある。俗名は右衛門。 伝承によれば、文明(1469-1487)頃に美濃で活動した良賢の子、兼村の子とされる。また、関の兼春の門人とする説や、伊勢に逗留した五代平安城長吉に学んだとする説もある。 現存する作品には和泉守兼定(之定)に酷似するものがあり、兼定にも「於伊勢山田是作」の銘があることから、両者の交流が窺える。さらに、関の兼永との合作短刀も現存しており、村正と関鍛冶との間に深い繋がりがあったことは明白である。 法名は妙台、号を千子と称し、これが後に彼が興した流派の名称となった。 作刀時期は文明から永正(1504-1521)に及び、現存する最古の年紀銘は文亀元年(1501)八月である。 【体配】 打刀、小脇指、短刀が遺されている。 打刀は二尺二寸から二尺三寸(約66.7〜69.7cm)前後の長さで、先反りがつき、平肉が枯れる。 短刀は九寸(約27.3cm)前後で反りがつく。 平造りの小脇指は一尺三寸から一尺四寸(約39.4〜42.4cm)ほどで、これも先反りがつく。 【地鉄】 板目肌がよく詰み、流れごころの肌(柾目)が交じり、地沸がつく。 【刃文】 小沸出来の皆焼、あるいは匂口の締まった直刃に腰芝を焼くもの、大模様の湾れ、互の目乱れ、箱乱れなどがある。 刃中に「むら沸」と称される沸の凝りが見られるのが特徴。また、互の目が二つ三つと連なり、その谷が刃先に向かって深く低く沈む独特の形状を呈する。 最大の特徴は、表裏の刃文が揃う(揃い刃)ことにある。 【帽子】 乱れ込み、地蔵風となって長く焼き下げる(乱れ返り)ものが多い。 総じて、村正の作風は美濃伝と相州伝の折衷と見なすことができる。 【茎】 「たなご腹」と称される独特の形状を呈する。茎の背(棟)側が角ばり、刃側が丸みを帯びる。 後世、村正に似せて茎をたなご腹に改変したものも見受けられるが、その場合は刃側の厚みが不自然に残るため、本来の形状との判別が可能である。 【逸話】 かつて「相州正宗の門人」とする伝説があったが、これは慶長年間の刀剣書において既に否定されている。 江戸時代、徳川将軍家にとって不吉な「妖刀」として忌避され、幕府によって一時帯刀が禁じられた。そのため、多くの村正の銘が改竄された。代表的な例として、「村」の字を削り取り、「正」の字の下に「広」を加えて「正広」と書き換えたものなどが知られている。

Muramasa ko-wakizashi

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流派について

Muramasa School村正派

村正派は伊勢国桑名を本拠とし、室町時代後期から戦国の世にかけて栄えた一門である。現存する上限の年紀は文亀元年(一五〇一)で、「勢州桑名住右衛門尉藤原村正作」と居住地・俗名・刀工銘を完備した長銘がこれを伝え、この定点から通説は文亀を初代、天文を二代、天正を三代とする。一門の祖たる初代村正がその名を負う作風を定め、技量最も優れ作刀も多く現存する天文頃の二代がこれを大成し、門には正重・正眞を出した。世に正宗の弟子と伝える俗説は早くより行われたが、年紀の記録を前に当を得ぬものとして退けられ、本派はあくまで室町末期近くにはじまる刀工と位置づけられる。その作風は美濃・島田・末相州と共通するところを持ち、なかでも京の平安城長吉と特に近く、長吉とは何らかの関係があったとも、師弟関係にあったとも説かれる。日蓮宗への帰依は鉄の上に直に読め、刃に妙法蓮華経の題目を切り、梵字・蓮台・八幡大菩薩を彫る作があることから、当時伊勢地方に同宗の信仰の少なくなかったことがうかがわれる。 本派を貫く第一の特色は、刃文の表裏が目立って揃うことである。互の目・のたれを基調に箱がかった刃を交え、乱れの谷が刃先にせまり、その乱れが表裏で鏡のように対応する。匂口は締りごころに小沸が叢につき、時に沈みごころとなって砂流しがしきりにかかる。帽子は直ぐに小丸、または乱れ込んで掃きかけ、覇気ある作では返りを深く棟焼に続ける。これを載せる姿は、平造・三ツ棟で身幅広く寸延びた短刀・小脇指、および寸の詰った先反りの強い打刀で、フクラの枯れる室町後期の典型を示す。鍛えは板目に流れ肌・柾ごころを交えてやや肌立ち、地沸つき、鉄色心持ち黒みがかって白けごころを帯びるものが多い。茎は生ぶで下半が著しく細るたなご腹となり、太鏨大振りの二字銘を切るのを常とする。一門のうちにも度合の差があり、初代村正の手が二様の銘と信仰の作に分かれるのに対し、二代はたなご腹と流暢な銘字が殊に著しい。正重は同じ千子の手をより肌立たせ、より強く沸づかせて放胆に開き、正眞はこれを引き締めて地肌が少しつむ傾向にあり、上半を穏やかな直刃に納める。皆焼はいずれの工にあっても時折の作域に止まり、本領はあくまで表裏の揃う乱れ刃にある。 鑑定の勘所は、まずこの表裏の揃いと、刃先にせまる乱れの谷、締りごころの匂口と叢沸、そしてたなご腹の茎と太鏨の銘字にある。一見すると末関の兼定・兼芝に紛れ、島田物に似、平安城長吉とは酷似するため、これらと分けるにはこの見どころに立ち返らねばならない。一門内では茎が決め手となり、村正の茎棟が角に切られるのに対し、正重はいかにも丸く肉がつくとされる。切れ味の評は古来高く、後の世にその作が忌まれた一因ともなった。すなわち徳川家に祟る、持主に祟るとの妖刀伝説が行われ、その忌避にふれて銘を消されたものが多く、現存有銘の刀は比較的に稀である。名跡の行方についても、忌避にふれて絶えたとする説と、同銘相継いで新刀に及んだとする説が併存する。伝来には大名家のものが残り、妙法蓮華経の刀は茎棟に銀象嵌「鍋信」とあって鍋島信濃守勝茂の所持と伝え、初代の脇指の一口は織田信長の指料と伝えて織田木瓜紋の合口を附し、正眞の一刀は将軍より拝領して水野家に下る。この水野家の刀は伊勢を憚って「山城国正真」と国名を改めて切られ、その隠された出自そのものが妖刀の評の重さを物語る。後の世がその名を消そうとした工の作であればこそ、年紀確かで表裏の揃う村正一門の作が世に現れることは、一箇の画期として今に求められている。

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