説明

鎌倉後期 来国俊 状態:販売中 鑑定書:特別保存刀剣 以下、ダーシー・ブロックバンク氏による解説: 山城伝の来派は、伝承によれば朝鮮半島から渡来したとされる国吉という鍛冶を始祖としています。「来」という銘字は、開祖が海外から日本へ「来た」ことに由来すると考えられています。しかし、来国吉の現存作は皆無であり、実質的な来派の祖は来国行と見なされています。国行の作風は純然たる鎌倉中期の様式であり、身幅が広く、密な重花丁子を焼いた堂々たる姿を特徴とします。 この来国行の子が、「二字国俊」と称される名工です。二字国俊の銘振りの作品は、概ね父・国行の作風を継承しており、丁子主体の華やかな刃文に、当時の流行である広身幅、猪首鋒の姿を見せます。 ここで少々混同されやすいのが、二字国俊に続く「来国俊」の存在です。来国俊の作風は、二字国俊と比較してより優美で、華やかさを抑えたものとなります。直刃を主調とし、先細るような姿(踏ん張りのある姿)が特徴です。銘字は「来國俊」と三字に切るため、別名「三字国俊」とも呼ばれます。 幸運なことに、正和四年(1315年)紀の来国俊の作品には、茎に「七十五歳」という行年銘が切られています。日本美術刀剣保存協会(NBTHK)の創設者であり、権威ある専門家であった本間順治先生は、著書『日本刀名鑑』において来国俊について次のように述べています。 「(七十五歳の年紀作について)……この年紀銘は、来派の研究において極めて重要な資料である。現在までに確認されている来国俊の年紀作のうち、最古のものは正応三年(五十歳時)、最新のものは元亨元年(八十一歳時)である。」 名工が五十歳になって初めて表舞台に現れるというのは、当時としては異例の遅さと言えます。一方で、二字国俊には弘安元年(1278年)や弘安九年(1286年)の年紀作が存在します。もし二字国俊と来国俊が同一人物であり、二字銘が初期の作であると仮定すれば、これらの製作時はそれぞれ38歳と46歳にあたります。これならば、後の三字銘で見せる卓越した技量を蓄積するのに十分な歳月があったと説明がつきます。 刀工鑑定の権威である藤代義雄氏も、この「一人説・二人説」について次のように言及しています。 「二字国俊と来国俊を別人とする説は、時代の変遷による作風の変化を無視した説である(長光の例を参照)。『観智院本』の正和五年の写本には、二字国俊の茎図の下に『来孫太郎入道、小切鑢、広直焼刃となる』との記述があり、これは国俊や国光らが生存していた当時の記録と一致する。」 後年、彼の作刀期間が非常に長期にわたることが明らかになったのは、こうした年紀作の発見によるものです。

Late Kamakura Rai Kunitoshi tanto
Tokuho

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短刀

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作者について

Rai Kunitoshi國俊

5 国宝7 重要文化財28 重要美術品4 御物21 特別重要刀剣143 重要刀剣

説明書は来国俊の記録を一つの確かな事実から書き起こす。すなわち「来派で最初に来の字を冠した刀工で、以後皆これに倣った」。来国行の子と伝え、鎌倉時代末期の京に作刀し、その経歴は自身の銘から異例なほど読み取れる。年紀作は正応・永仁に始まり、しばらく途絶えた後、正和に再び現れて文保・元応・元亨に及ぶ。徳川美術館所蔵の正和四年(1315)紀の太刀には「七十五歳」の行年銘があり、元亨元年(1321)八十二歳の作がほぼ終末と見られる。この年紀群こそ鎌倉末期来派の編年の骨格を成す。 典型の手は来派本流の最も精錬されたものである。太刀は細身もしくは尋常の身幅に元先の幅差が目立ち、反りは腰反り、磨上のものは輪反りを呈し、小鋒・中鋒に結ぶ。刃文は小沸出来の中直刃・細直刃に小丁子・小互の目を交え、足・葉がよく入り、足は時に茎方向へ斜めに傾く京逆足となる。働きは静かで、処々に二重刃がかかり、細かな金筋・砂流しが刃中に入り、匂口は締まって明るい。帽子は穏やかな小丸に返り、先は僅かに掃きかける。説明書がこの総体に与える評は一貫して「いかにも京物らしい上品で穏やかな作風」である。 極めの根拠の半ばは地鉄にある。鍛えは小板目がよく約み、地沸が厚く時に微塵につき、細かな地景を交えて沸映りが立つ。ある重要刀剣の説明は「殊に地鉄の精良さは特筆される」と記す。所々に「来肌」と称せられる大模様の柔らかい肌合が交じり、短刀では流れて柾がかる箇所もあるが、いずれも疵ではなく一派の見どころとして受け取られている。よく約んだ小板目、その上の微塵の地沸、鮮明な沸映りの取り合わせこそ、無銘の作を同工に帰す際に説明書が立ち返る要点である。 公刊された記録のほぼ半数は短刀で、これは一派の他の初期の巨匠がほとんど手がけなかった作域である。説明書は、二字国俊の短刀の遺例が名物愛染国俊の唯一口であるのに対し、来国俊には多くの短刀が現存すると繰り返し記す。平造・三ツ棟、身幅尋常もしくはやや寸延びで、鎌倉末期特有の静かな内反りがつき、直刃は時に浅くのたれ、小丸帽子の返りはしばしば長く焼き下げ、区際を焼き込むことが多い。彫物は常習で、刀樋の傍らに細い腰樋や素剣を添え、この添え彫の手法は「来物に特有」とされる。直刃が主調を成す一方、丁子を焼く一群が華やぎの極限に立つ。その代表は国宝指定の太刀であり、第二十七回特別重要に上がった小太刀は、細身で腰反り高く、房の大きい丁子を交えて刃沸がよくつき、「同工作例中で最も華やかな作域」を示し、「宛ら二字国俊を彷彿とさせる」と評される。この彷彿こそ一派の古典的な問いの核心である。二字国俊と来国俊三字銘が同人か別人かは古来の論点であるが、両銘の年紀を合わせると弘安元年(1278)から元亨元年(1321)の約四十年に及び、一人の刀工の作刀期間として無理はなく、七十五歳の行年銘から逆算すれば二字国俊唯一の年紀作は三十八歳にあたる。そして「近年両者の作風・銘字の再検討による同人説が定着しつつあり、別人説の再考を促している」。銘にはなお研究の種が残る。元応頃の銘字はやや草体となって晩年作か二代かが問われ、稀に源の字を添えた銘があり、島津齊宣の指料であった元亨二年折返銘の刀では国の字形が門人来国次の書風に一致し、「来国次の代銘した数少ない例」と推察され、此の手の銘振りは三例を数えるという。 二字国俊との対比は同工の説明の定型である。豪壮な体配に猪首鋒、華やかな丁子主調の乱れを得意とする二字国俊に対し、三字銘の作は細身か尋常の体配に直刃あるいは直刃調に小模様の乱れを交え、総じて穏やかな出来口を示す。同人説が開かれたままであっても、両者の手は作域の上で区分できる。むしろ彼の隣人は派内にいる。最も静かな細直刃は「一見了戒に紛れる」とされ、最も穏やかで大柄な短刀はまず来国光を思わせるが、「格調が一段高く」、極めは国俊に帰着する。門人の来国光・来国次は鎌倉末まで来派を担い、師弟の線の細さは、『名物帳』所収の「名物結城来国俊」が一見国光・国次を思わせると記されることにも表れている。 この位の巨匠としては異例なほど手の届く存在である。藤代の極めは最上作。国宝五口・重要文化財十一口を数え、その下に特別重要刀剣二十一口・重要刀剣百四十三口、両指定で百六十四口が立つ。在銘作が豊富で、ここでは在銘百三十四口に対し無銘九十一口であり、編年が書けるのもそのためである。十口は国宝・重要文化財の級にあって市場に出ることはなく、日光二荒山神社の小太刀はその一つである。徳川美術館は七十五歳の行年銘の太刀を蔵し、ほかに東京国立博物館・根津美術館・佐野美術館・黒川古文化研究所などに収まる。六十一口に伝来が録され、豊臣秀吉、将軍徳川秀忠・家光、尾張・紀州徳川家、前田家、上杉家、鹿児島島津家、信州松代真田家を経る。一方で三十六口が個人の所蔵と記録され、取引可能な重要刀剣の級にはなお多数が残るから、直刃の短刀や太刀、すなわち鎌倉末期山城物の最も純粋な形を示す一口は、真剣な収集家にとって現実に到達し得る目標であり続ける。対して丁子の作と年紀作は、事実上市場の外にある。

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