説明

相州貞宗 短刀 鑑定:特別重要刀剣(特別保存) 伝来:ジョージ・ヤン旧蔵 貞宗(建武頃、1334-1338年、相模) 「相模国住貞宗」。伝承によれば、本国は近江国で通称を彦四郎と称した。鎌倉へ移り正宗の門人となり、後にその養子となったと伝えられる。正宗十哲には数えられていないが、それは彼が正宗の息子、あるいは後継者であったためと推測される。事実、その作風は十哲のどの刀工よりも正宗に酷似している。 古文献には嘉元(1303-1306年)から貞和(1345-1350年)にかけての年紀を持つ在銘品の押形が残されているが、今日、彼に確定的に比定できる在銘の真作は現存しない。現存する帰銘作の中で最も初期のものとしては、国宝「亀甲貞宗」が知られている。 現存する太刀、短刀、小脇指などの作風から、その活躍期は鎌倉末期の嘉暦(1326-1329年)・元徳(1329-1331年)頃から、南北朝期の貞和(1345-1350年)頃までと推定される。鎌倉末期風の小振りの短刀も僅かに見られるが、多くは九寸五分(約28.8cm)前後の寸延び短刀、あるいは一尺(30.3cm)を超える小脇指である。また、太刀においても身幅が広く大鋒となるものが多く、これらは南北朝期が彼の全盛期であったことを物語っている。 地鉄は板目肌が立ち、地沸厚くつき、木目肌を交えることもある。常に強い地景が見られるのが特徴である。刃文は沸出来の湾れに小乱れ、あるいは大乱れを交え、匂口は明るく冴える。さらに金筋、稲妻、砂流しが頻繁にかかり、総じて正宗に比べると幾分穏やかな趣がある。帽子は湾れ込み、あるいは乱れ込んで先が尖り、小丸、または大丸に返る。いずれも沸が強くつき、掃き掛けを伴う。 彫物については、梵字、素剣、二筋樋が多く見られるが、樋の中に素剣を浮き彫りにしたものや腰樋なども知られている。片切刃造の刃に二筋樋を初めて彫ったのは貞宗であると言い伝えられている。 前田玄以(1539-1602年)が所持した名物「徳善院貞宗」は、地肌こそ貞宗の典型を示すが、刃文は皆焼(ひたつら)に近い大乱れを見せ、他の貞宗作品には見られない異色の作風を呈している。しかしながら、沸の妙味や地鉄の質は後世の広光や秋広といった相州鍛冶を明らかに凌駕しており、梵字や素剣の彫り口も貞宗のそれと一致する。ゆえに、たとえ刃文が異例であっても、貞宗の真作であることに疑いの余地はない。 正宗と同様に、貞宗にも「貞宗三哲」と称される優れた門弟がおり、山城の信国、法城寺国光、備元の元重がその名を連ねている。⦿

Soshu Sadamune tanto
Tokuho

Soshu Sadamune tanto

短刀

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仕様

長さ

28.8 cm

流派について

Soshu School相州派

相模国鎌倉の地に興り、沸を主たる表現とした相州伝を確立した一門である。事実上の創始者は新藤五国光で、粟田口国綱の子と伝え、その地鉄には師仕込みの小板目によく約んだ精良さが残る。永仁元年(一二九三)紀の在銘短刀を最古とし、居住地を銘に明記して年紀を遺す生えぬきの相模刀工の祖と称すべき工である。国光は粟田口の精良な地鉄を承けつつ、地景と金筋を著しく強調する一面を加え、その門下に行光、正宗、則重の三名人を育てた。国光の精到な沸の直刃は、後にこの三者が沸の乱れへと展開する源流となり、ここに相州伝の地盤が据えられた。行光は正宗よりやや先輩とみられ、正宗が頂点に立ち、その門から養子の貞宗が正系二代を継ぐ。則重は越中にあって相弟子として一門を支え、南北朝期には広光と秋広が皆焼を完成させ、越中へは郷義弘が相州伝を西漸させて、一門は諸国へと広がった。 作風の核は、鎌倉後期に始まる沸の表現にある。鍛えは板目に杢を交え、地沸が微塵に厚くつき、太い地景が頻りに入って明るく冴え、刃文はのたれに互の目を交えた沸出来で、匂深く沸厚く、金筋と砂流しが躍動し、帽子は単なる小丸に終わらず盛んに掃きかける。これが一門を貫く共通の語法である。その内部には明瞭な展開がある。国光の抑制された沸の直刃から出発し、行光は師に直結する穏やかな乱れを保ちつつ帽子に火焰風の掃きかけを見せ、正宗に至って炭素量の異なる数種の鋼を駆使した沸の妙が極まり、地にこぼれた沸が湯走りをなし、破墨山水を見る趣の自在な出来口に達する。則重はこの沸の変化をさらに露わにし、太い地景が松皮の如く肌立つ松皮肌を看どころとした。貞宗は正宗より穏やかなのたれ調に持味を移し、梵字、素剣、護摩箸、二筋樋など相州随一の彫物を加えて、これを信国へ伝えた。さらに広光と秋広は、貞宗にわずかに兆していた湯走りを推し進め、飛焼、湯走り、棟焼が地と棟にさかんにかかる本格的な皆焼を完成させた。広光は頭の丸い団子丁子を交え、秋広は地が一段と肌立って荒らびごころを帯び、ここに鎌倉の精良な直刃から南北朝の華麗な皆焼へという内的な展開が完結する。郷義弘は帽子を一枚風に深く焼く点に独自を示し、高木貞宗と新藤五国広は師風を近江と相模に静かに継いだ。 鑑定にあっては、まず明るく冴える鉄、厚い地沸、繁き地景、そして掃きかける帽子で一門を相州と読み、次に世代ごとの看どころで工を分かつ。国光は翁の髭と称する金筋を交えた精良な直刃短刀、行光は穏やかな乱れに掃きかける帽子、正宗はのたれ基調の烈しい沸崩れと垢抜けた地刃、則重は沈みごころの匂口と松皮肌、貞宗は穏やかな互の目と豊かな彫物、広光は団子丁子の皆焼、秋広は肌立つ地の皆焼、郷は一枚風の深い帽子と一段と冴える地刃という具合に、看どころが工と時代を指し示す。国光、行光、正宗、則重、貞宗、郷、広光、秋広はいずれも藤代の最上作に列し、なかでも正宗はその名を負う指定の重みが比類なく、相州伝の頂点に位置する。一門の作には名物陸奥新藤五、太郎作正宗、御堀出貞宗、大久保江、大倶利迦羅広光などが連なり、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康をはじめ天下を握った者の手を経て、皇室や諸大名家に伝わった。正宗や郷のごとく在銘の確実作を遺さぬ工が多く、その大半は大磨上無銘の極めとして知られるため、一門の作が市に現れることはこの分野で最も稀な出来事のひとつである。本一門の沸出来は山城来や美濃志津をはじめ諸国の鍛冶に承け継がれ、正宗十哲の名のもとに相州伝は日本刀の作風そのものを規定する規範となった。

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