collection-006 銀製小刀 たんぽぽ 在銘 夏雄 夏雄大鑑所載 加納夏雄 Kozuka Natsuo 幕末から明治にかけて活躍した金工師。京都出身。 京都柳馬場御池の米屋に生まれる。本姓は伏見。 7歳で刀剣商の加納治助の養子となると、ごく自然に鍔や柄の美しさに魅せられると見よう見まねで鏨を握るようになった。その才能を認めた養父母の勧めで12歳の頃から彫金師奥村庄八の元で修行し、線彫り、象嵌などの技法を身に着けた。 14歳で円山四条派の絵師・中島来章に師事し写実を極める。 1846年19歳で金工師として独立。安政元年(1854年)に江戸へ移り、神田に店を構え小柄や鐔などに生命を宿すことに心血を注ぐ。 鏨を斜めに方向け片側で彫ってゆく片切彫を得意とした。明治維新を迎えた後、明治2年(1869年)4月に皇室御用を命じられ、刀剣愛好家でもあった明治天皇の太刀飾りを担当した。 さらに同年7月、新政府から新貨幣の原型作成を依頼され、門下生と共に試鋳貨幣の作成を担当した。当初はそれを元にイギリスに極印の作成を依頼する予定だったが、見本を見たイギリス人技師ウォートルスがその完成度の高さから「これほどの名工が居るのにわざわざイギリスに依頼する必要はあるまい」と驚嘆させ、そのため新貨幣はデザインから型の制作まで全て加納および門下生に一任された。 明治5年(1872年)に行われた正倉院宝物修理の際、明治天皇が宝物の一つの聖武天皇が佩剣したとされる8世紀の直刀を気に入り手元に収めた。加納は明治天皇からこの直刀に合う拵えの作成を命じられ、翌明治6年(1873年)に完成させ、明治天皇はこれを「水龍剣」と号して佩用した。なお、昭和32年(1957年)に「直刀 無銘(号 水龍剣) 附 梨地水龍瑞雲文宝剣」として重要文化財に指定されている。 1876年廃刀令が交付されると多くの同業者は廃業に追い込まれるが、加納は注文が引きも切らず煙草入れや根付の名品を作り続ける。またその気品ある作品は海外でも人気を博し、その名は世界中に知れ渡った。 1890年第三回内国勧業博覧会で百鶴図花瓶が一等妙技賞を受賞し、その後宮内省買い上げとなり、明治宮殿桐の間に飾られたと伝えられる。またこの年東京美術学校の教授に就任し[2]、さらに第1回帝室技芸員に選ばれる。 明治天皇の下命により、金具彫刻主任として1896年に「沃懸地御紋蒔絵螺鈿太刀拵」を完成させ[5]、1903年に川之邊一朝らと共に「菊蒔絵螺鈿棚」を完成させた。これらは俗にいう「明治の三大製作(三大作)」のうちの2つである。



夏雄
Bunsei–Meiji (1828-1898)
在銘
特別保存
金工 · 武蔵 · 1828-1898頃
現在1点販売中
加納夏雄(かのうなつお)は、文政十一年(1828年)に京都に生まれ、幼くして刀剣商加納治助の養子となった。十二歳で金工、奥村庄八のもとに入門し勉強し、十四歳の時に大月派の池田孝寿について金工技を学び、寿朗と銘し、後に夏雄と改めた。期を同じくして漢文の素読を谷森種松に、絵画を円山四条派の巨匠中島来章に習った。二十七歳の時に江戸に出て研鑽、大成し、町彫最後の名人と称された。明治に入ると新貨幣鋳造の原形製作を政府より託され、明治二十三年には東京美術学校の教授となり、同年初の帝室技芸員に選ばれた。明治三十一年(1898年)、七十一歳で歿している。
夏雄の作風は、初期には魚子地を用いたものや、京都時代の素養を色濃く反映したものがみられる。鉄地、赤銅地、四分一地など多様な素材を駆使し、高彫、鋤出彫、象嵌、色絵といった技法を自在に操る。特に四分一の昼夜仕立てや虎斑の四分一磨地は夏雄の特徴として知られる。構図においては、空間を大きくとり、そこに漲る大気の層を重要視する悠々たる構図が特徴的であり、余白の美を重視した作風もみられる。また、金家風の作や安親の影響を受けたと思われる作も存在する。写実的な表現に優れ、花鳥、人物、風景など幅広い題材を手掛け、その表現は「瞬時の写実と写意を捉えた感性と彫技は卓抜」[[c:1]]と評される。雨の表現は独特であり、清冽さを感じさせる。晩年には新貨幣の原形製作に携わった経験からか、より写実的で精緻な作風へと変化していった。
加納夏雄は、「町彫最後の名人」と称され、その技術の高さ、感性の卓越性などが結実した作品は傑作と評される。写生力と緻密な彫技を兼備し、卓越した技術にて彫り上げられた作品は、構図や空気感が他工の遠く及ぶところではない。その作品は「夏雄芸術の独壇場」[[c:2]]であり、「夏雄芸術の到達点」[[c:3]]とも評される。また、刀装具という小さな作品に空間の広がりと図取りの妙を表現する手腕は特筆される。総じて、夏雄の作品は、伝統的な彫金技術に円山四条派の絵画の要素を取り入れ、独自の境地を切り開いたものとして高く評価されている。
夏雄の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
金工 · 山城
現在1点販売中
加納派は、幕末から明治にかけて活躍した金工・加納夏雄を中心とする一派である。夏雄は文政十一年(一八二八)京都に生まれ、幼くして刀剣商加納治助の養子となり、十二歳で金工奥村庄八のもとに入門し勉強した。十四歳の時に大月派の池田孝寿について金工技を学び、初め寿朗と銘し、後に夏雄と改めた。期を同じくして漢文の素読を谷森種松に、絵画を円山四条派の巨匠中島来章に習った。彼が町彫最後の名人と称されたのは、この京都時代に培われた素養によるものが大きい。二十七歳の時に江戸に出て研鑽を重ね、大成した。安政三年紀の三所物に「左京人夏雄」と切った銘文には青雲の志に燃える夏雄の誇りと覚悟のほどが顕示されており、加藤氏の需に応じた鐔や、藩政時代に秋田藩主佐竹家に伝来した風竹に流水図鐔など、大名家をはじめ広く需要に応えたことが遺品から知られる。 その作風は、円山四条派に学んだ精緻な写生を根幹とし、地金と彫技の多彩さにおいて他に類を見ない。地金は鉄磨地・赤銅魚子地・赤銅荒し地のほか、鉄と四分一を合わせた昼夜仕立、さらに夏雄の特徴ともいえる虎斑の四分一磨地に及ぶ。彫技は謹厳な鋤出高彫を主体に、絵画的な片切彫・毛彫を駆使し、平象嵌・据文象嵌・布目象嵌・消込象嵌を的確に施す。色絵には金・銀・赤銅・素銅・四分一・真鍮のほか貝をも交え、細部にいたるまで入念な彩色を尽くす一方、色絵を金一色に限定して僅かに施すなど、抑制の利いた表現も見せる。余白の美を重視した構図、空間に漲る大気の層を重要視する悠々たる構成、水辺の清涼な空気感を巧みに捉えてさりげなく表現するところは夏雄芸術の独壇場であり、種々の金属と手法を駆使しながら品良くサラリと表現できるのがその真骨頂である。絵風鐔の祖と称された金家を手本と明記した作があり、安親の影響も指摘される。画題は魚尽し・柳樹白鷺・月に蘆雁・牡丹・四君子・竹林七賢人・末広がり・水月・月下狸腹鼓など、花鳥風月から狂言・故事にまで及び、いずれも精緻な写生に基づく謹厳迫真の鏨捌きと豊かな抒情味をもって完成されている。 明治に入ると、夏雄は新貨幣鋳造の原形製作を政府より託されてこれにあたり、明治二年に大阪造幣局に出仕、同四年宮内省雇員となり、同十四年には内国勧業博覧会審査員を務めた。明治二十三年には東京美術学校の教授となり、同年初の帝室技芸員に選ばれた。明治三十一年、七十一歳で歿している。「我国刀装金工史の棹尾を飾った名工」[[c:1]]と評される通り、その遺品は審査の説明においても最高の讃辞をもって語られる。竹林七賢人図鐔は気韻生動が凛々と張った名鐔と称され、水月図小柄はこの空気感を表現できるのは夏雄しかいないと言っても過言ではなく、加えることも差し引くこともない構図は夏雄芸術の到達点とされ、明治十七年制作の魚尽図鐔は夏雄工芸の集大成と位置づけられている。幕末の装剣金工の伝統を明治の美術工芸へと橋渡しした加納派の存在は、刀装具史の掉尾を飾るものとして不動の地位を占めている。 詳しく見る →
保存刀装具のうち、出来・保存状態が一層優れ、銘文や作風に資料的価値の高いものと認められたものです。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト商品に欠陥がある場合をのぞき、基本的には返品には応じません。当店不手際の場合、商品到着後3日間以内にメールにてご連絡をお願い致します。
collection-006 銀製小刀 たんぽぽ 在銘 夏雄 夏雄大鑑所載 加納夏雄 Kozuka Natsuo 幕末から明治にかけて活躍した金工師。京都出身。 京都柳馬場御池の米屋に生まれる。本姓は伏見。 7歳で刀剣商の加納治助の養子となると、ごく自然に鍔や柄の美しさに魅せられると見よう見まねで鏨を握るようになった。その才能を認めた養父母の勧めで12歳の頃から彫金師奥村庄八の元で修行し、線彫り、象嵌などの技法を身に着けた。 14歳で円山四条派の絵師・中島来章に師事し写実を極める。 1846年19歳で金工師として独立。安政元年(1854年)に江戸へ移り、神田に店を構え小柄や鐔などに生命を宿すことに心血を注ぐ。 鏨を斜めに方向け片側で彫ってゆく片切彫を得意とした。明治維新を迎えた後、明治2年(1869年)4月に皇室御用を命じられ、刀剣愛好家でもあった明治天皇の太刀飾りを担当した。 さらに同年7月、新政府から新貨幣の原型作成を依頼され、門下生と共に試鋳貨幣の作成を担当した。当初はそれを元にイギリスに極印の作成を依頼する予定だったが、見本を見たイギリス人技師ウォートルスがその完成度の高さから「これほどの名工が居るのにわざわざイギリスに依頼する必要はあるまい」と驚嘆させ、そのため新貨幣はデザインから型の制作まで全て加納および門下生に一任された。 明治5年(1872年)に行われた正倉院宝物修理の際、明治天皇が宝物の一つの聖武天皇が佩剣したとされる8世紀の直刀を気に入り手元に収めた。加納は明治天皇からこの直刀に合う拵えの作成を命じられ、翌明治6年(1873年)に完成させ、明治天皇はこれを「水龍剣」と号して佩用した。なお、昭和32年(1957年)に「直刀 無銘(号 水龍剣) 附 梨地水龍瑞雲文宝剣」として重要文化財に指定されている。 1876年廃刀令が交付されると多くの同業者は廃業に追い込まれるが、加納は注文が引きも切らず煙草入れや根付の名品を作り続ける。またその気品ある作品は海外でも人気を博し、その名は世界中に知れ渡った。 1890年第三回内国勧業博覧会で百鶴図花瓶が一等妙技賞を受賞し、その後宮内省買い上げとなり、明治宮殿桐の間に飾られたと伝えられる。またこの年東京美術学校の教授に就任し[2]、さらに第1回帝室技芸員に選ばれる。 明治天皇の下命により、金具彫刻主任として1896年に「沃懸地御紋蒔絵螺鈿太刀拵」を完成させ[5]、1903年に川之邊一朝らと共に「菊蒔絵螺鈿棚」を完成させた。これらは俗にいう「明治の三大製作(三大作)」のうちの2つである。



夏雄
Bunsei–Meiji (1828-1898)
在銘
特別保存
金工 · 武蔵 · 1828-1898頃
現在1点販売中
加納夏雄(かのうなつお)は、文政十一年(1828年)に京都に生まれ、幼くして刀剣商加納治助の養子となった。十二歳で金工、奥村庄八のもとに入門し勉強し、十四歳の時に大月派の池田孝寿について金工技を学び、寿朗と銘し、後に夏雄と改めた。期を同じくして漢文の素読を谷森種松に、絵画を円山四条派の巨匠中島来章に習った。二十七歳の時に江戸に出て研鑽、大成し、町彫最後の名人と称された。明治に入ると新貨幣鋳造の原形製作を政府より託され、明治二十三年には東京美術学校の教授となり、同年初の帝室技芸員に選ばれた。明治三十一年(1898年)、七十一歳で歿している。
夏雄の作風は、初期には魚子地を用いたものや、京都時代の素養を色濃く反映したものがみられる。鉄地、赤銅地、四分一地など多様な素材を駆使し、高彫、鋤出彫、象嵌、色絵といった技法を自在に操る。特に四分一の昼夜仕立てや虎斑の四分一磨地は夏雄の特徴として知られる。構図においては、空間を大きくとり、そこに漲る大気の層を重要視する悠々たる構図が特徴的であり、余白の美を重視した作風もみられる。また、金家風の作や安親の影響を受けたと思われる作も存在する。写実的な表現に優れ、花鳥、人物、風景など幅広い題材を手掛け、その表現は「瞬時の写実と写意を捉えた感性と彫技は卓抜」[[c:1]]と評される。雨の表現は独特であり、清冽さを感じさせる。晩年には新貨幣の原形製作に携わった経験からか、より写実的で精緻な作風へと変化していった。
加納夏雄は、「町彫最後の名人」と称され、その技術の高さ、感性の卓越性などが結実した作品は傑作と評される。写生力と緻密な彫技を兼備し、卓越した技術にて彫り上げられた作品は、構図や空気感が他工の遠く及ぶところではない。その作品は「夏雄芸術の独壇場」[[c:2]]であり、「夏雄芸術の到達点」[[c:3]]とも評される。また、刀装具という小さな作品に空間の広がりと図取りの妙を表現する手腕は特筆される。総じて、夏雄の作品は、伝統的な彫金技術に円山四条派の絵画の要素を取り入れ、独自の境地を切り開いたものとして高く評価されている。
夏雄の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
金工 · 山城
現在1点販売中
加納派は、幕末から明治にかけて活躍した金工・加納夏雄を中心とする一派である。夏雄は文政十一年(一八二八)京都に生まれ、幼くして刀剣商加納治助の養子となり、十二歳で金工奥村庄八のもとに入門し勉強した。十四歳の時に大月派の池田孝寿について金工技を学び、初め寿朗と銘し、後に夏雄と改めた。期を同じくして漢文の素読を谷森種松に、絵画を円山四条派の巨匠中島来章に習った。彼が町彫最後の名人と称されたのは、この京都時代に培われた素養によるものが大きい。二十七歳の時に江戸に出て研鑽を重ね、大成した。安政三年紀の三所物に「左京人夏雄」と切った銘文には青雲の志に燃える夏雄の誇りと覚悟のほどが顕示されており、加藤氏の需に応じた鐔や、藩政時代に秋田藩主佐竹家に伝来した風竹に流水図鐔など、大名家をはじめ広く需要に応えたことが遺品から知られる。 その作風は、円山四条派に学んだ精緻な写生を根幹とし、地金と彫技の多彩さにおいて他に類を見ない。地金は鉄磨地・赤銅魚子地・赤銅荒し地のほか、鉄と四分一を合わせた昼夜仕立、さらに夏雄の特徴ともいえる虎斑の四分一磨地に及ぶ。彫技は謹厳な鋤出高彫を主体に、絵画的な片切彫・毛彫を駆使し、平象嵌・据文象嵌・布目象嵌・消込象嵌を的確に施す。色絵には金・銀・赤銅・素銅・四分一・真鍮のほか貝をも交え、細部にいたるまで入念な彩色を尽くす一方、色絵を金一色に限定して僅かに施すなど、抑制の利いた表現も見せる。余白の美を重視した構図、空間に漲る大気の層を重要視する悠々たる構成、水辺の清涼な空気感を巧みに捉えてさりげなく表現するところは夏雄芸術の独壇場であり、種々の金属と手法を駆使しながら品良くサラリと表現できるのがその真骨頂である。絵風鐔の祖と称された金家を手本と明記した作があり、安親の影響も指摘される。画題は魚尽し・柳樹白鷺・月に蘆雁・牡丹・四君子・竹林七賢人・末広がり・水月・月下狸腹鼓など、花鳥風月から狂言・故事にまで及び、いずれも精緻な写生に基づく謹厳迫真の鏨捌きと豊かな抒情味をもって完成されている。 明治に入ると、夏雄は新貨幣鋳造の原形製作を政府より託されてこれにあたり、明治二年に大阪造幣局に出仕、同四年宮内省雇員となり、同十四年には内国勧業博覧会審査員を務めた。明治二十三年には東京美術学校の教授となり、同年初の帝室技芸員に選ばれた。明治三十一年、七十一歳で歿している。「我国刀装金工史の棹尾を飾った名工」[[c:1]]と評される通り、その遺品は審査の説明においても最高の讃辞をもって語られる。竹林七賢人図鐔は気韻生動が凛々と張った名鐔と称され、水月図小柄はこの空気感を表現できるのは夏雄しかいないと言っても過言ではなく、加えることも差し引くこともない構図は夏雄芸術の到達点とされ、明治十七年制作の魚尽図鐔は夏雄工芸の集大成と位置づけられている。幕末の装剣金工の伝統を明治の美術工芸へと橋渡しした加納派の存在は、刀装具史の掉尾を飾るものとして不動の地位を占めている。 詳しく見る →
保存刀装具のうち、出来・保存状態が一層優れ、銘文や作風に資料的価値の高いものと認められたものです。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト商品に欠陥がある場合をのぞき、基本的には返品には応じません。当店不手際の場合、商品到着後3日間以内にメールにてご連絡をお願い致します。