元久二年(一二〇五)二月紀の太刀が現存する。同作は再刃ながら、行平の活躍期を平安時代末期から鎌倉時代初期に定める資料として貴重とされる。行平は豊後国の刀工で紀新太夫と称し、説明書は「九州古典派の中でも技術と名声が最も高く、現存する作品も比較的多い」と繰り返し記す。彦山の僧定秀とは弟子とも師とも、また子とも伝えられて所伝が分かれ、後鳥羽院番鍛冶の一人とも伝える。年代は明確である一方、一見すると更に古く見える作風である。
作風は定秀に全く近似すると評される。鍛えは軟らかくねっとりとして「一種の色沢があり」、刃文は直刃か小乱れで、いずれも匂口がうるみ、「区上で焼き落す手癖も同様」とされる。焼落しは大きく、磨上の作では「焼落は磨上の為なくなっている」と注意される。姿は細身で小鋒、腰反り高く踏張りがつき、二尺二寸前後のやや小振りの太刀をまま見掛け、大太刀は例外的である。
鍛えは板目が処々流れ、まま大肌を交え、地沸が微塵に厚くつき、細かな地景を交えて白け映りが立つ。刃文は細直刃調に小乱れ・小互の目・浅いのたれを交え、小足が入り、小沸がつき、金筋・砂流しがかすかにかかり、湯走りが刃縁に沿い、まま二重刃ごころとなる。帽子は焼き弱く直ぐに小丸、ときに焼詰め風、掃きかけを交える。重要刀剣の一口はこれを「豊後の行平の典型的な太刀である」と要約する。
彫物と銘とに同工の見どころがある。多くの作は腰元に小さく古雅な彫物を伴い、櫃内の倶利迦羅の浮彫を筆頭に、梵字、まま地蔵菩薩・松喰鶴・桜花・樋中の素剣を見るが、「この種の彫刻は彼以前の作には見当らない」とされ、御物の解説はこの手法が後の豊後物に伝わったと記す。彫のない作は却って稀で、徳川家達旧蔵の一口は本間順治により同工中屈指の出来と評された。「銘は当時の一般刀工とは反対に佩裏にきるのを常としている」。一般太刀銘のものも現存するが僅かである。銘字は「ひっかいたような稚拙なところに彼の独特さがある」とされ、最古の刀剣書たる正和銘尽は既に偽物の多さを載せ、「銘字の巧みなものは皆偽銘」と説く。造込みでは在銘の剣は珍しく出来がよく、その時代の短刀は稀有、小太刀も類例が少なく『光山押形』所載の一口がある。
これらの見どころのすべてが彼一人のものではない。軟らかい地がね・匂口のうるみ・焼落しは古波平など九州古作に共通する特色とされ、御物の解説は正倉院御物に見る最も古典的な様式の忠実な伝承と説く。その中で行平を筆頭たらしめるのは、白け映りの立つねっとりした板目、穏やかな直刃調、腰元の彫物、佩裏の長銘という固有の組合せである。名声は鎌倉時代から既に高く、刀剣書が偽銘を戒めねばならぬほどであり、腰元の彫物は刀身彫刻の濫觴として後世の彫りの名手を先取りし、豊後鍛冶の伝統はその一門に発する。
藤代の格付けは最上作。指定を受けた作は三七口を数え、うち三三口が在銘である。御物の太刀二口、重要文化財一〇口、戦前の重要美術品五口(元久二年紀の太刀=九條道秀旧蔵、徳川家達旧蔵の太刀、上杉憲章旧蔵の短刀を含む)、特別重要刀剣五口・重要刀剣一五口、両指定で二〇口に上る。伝来は徳川将軍家・水戸徳川家・紀州徳川家に及び、寛文元年(一六六一)の本阿弥光温折紙を附帯する太刀が二口ある。御物と重要文化財は伝世の重宝として収まり、蒐集家が現実に出会い得るのは特別重要・重要の二〇口で、その多くは典型の在銘太刀である。市場に現れることは稀であり、銘尽以来七百年の偽銘への戒めが今も生きるだけに、佩裏の稚拙な長銘と区上の焼落しを完備した一口が出れば、鎌倉時代最初期の在銘作として出色の機会となる。