定秀は平安から鎌倉へ移る頃の豊後国に活躍し、説明書はこれを九州の古き霊山たる英彦山の住僧と記す。その位置を豊後の祖たる行平の傍らに置きながら、いずれが先かを定め得ず、「定秀は彦山の僧で行平の師とも弟子ともいう」と伝える。年紀のある作は一口も残らない。残るのは「豊後国僧定秀」と切った在銘の太刀の小さな一群であり、その姿こそが時代を語る。細身に腰反り高く踏張りつき、先伏さりごころとなって小鋒に結ぶ古雅で優美な姿は、第七十回重要刀剣の説明が言うとおり、鎌倉時代初期を降らない古雅な太刀姿である。
その手はまず刃の穏やかさに読まれる。在銘の作の全体に細直刃が浅くのたれごころを帯びて通り、当代備前の華やかな丁子ではなく静かな小乱れを交える。その刃の見どころは匂口で、説明書はこれを繰り返しうるみと評し、決して冴えて明るくはない。本阿弥の短刀極めも刃文を直刃調の小乱れとし、その「匂口がうるんで」小沸がつくとする。匂口には小沸が厚く沸き、打のけ風の半月、淡い二重刃、細かな金筋・砂流しが、混み合うことなく刃中刃縁に働く。帽子は表が直ぐに先焼詰め、裏は小丸に返り、しばしば掃きかけを見せる。それは在銘小太刀の説明が言う「九州物らしい穏やかな魅力」にほかならない。
地鉄も同じ古調を帯びる。板目が流れて柾がかりやや肌立ち、行平のそれに比される錬れのよい地に地沸つき、細かな地景が入る。その鉄はかね白けごころとなり、備前の明るい乱れ映りではない。戦前の重要美術品の太刀は同じ地に映りごころを記すにとどまる。流れた白けの地と沸づいてうるんだ直刃とは、まさに第七十回重要刀剣の言う「九州古典派の地刃の特徴が表れている」ところであり、備前・山城の明るい古典の手から本工を分かつ最も確かな手がかりである。
その記録には二つの面がある。第一は今述べた在銘の太刀・小太刀で、本工の手の典型である。第二は、延宝六年に本阿弥光常が定秀と極め、三拾枚の折紙をつけて朱銘を施した、平造三つ棟の無銘の短刀である。その地鉄は全く常と異ならぬが、刃文は中程上が特に盛んに乱れ、説明書はこれを端的に「行平には見られない出来である」とする。表に倶利迦羅の浮彫、裏に梵字を彫り、これも行平に見られる彫物である。光常はこれを豊後の古作と鑑て、しかも行平には見られぬ出来という点から定秀と極めたものであろうとし、説明書はこれを流石と評する。
本工をその一門の内で分かつものは、説明書自身が名指している。行平にはその板目と沸づいた直刃で近いとされながら、かの中程上の乱れと、銘振りそのものの大きさ・態様によって分かたれる。その銘もなお定まらず、判者は「経眼した定秀の銘振りは一律ではなく」そのいずれを典型とすべきか研究の余地があると認める。一口の太刀は「勝」の文字に桜花を彫り、これは行平にも散見し、「勝」の字を彫るものに古伯耆の大原真守があることから、本工は西国古典の手の中に位置づけられる。豊後が後年の多くの諸工へ花開く前に立つ、南国刀工の静かな初期の根の一つである。
収集の観点では、稀な初期の名である。藤代の極めは上々作。国宝はなく、重要文化財もその記録になく、その評価は在銘太刀三口の戦前の重要美術品指定と、第七十回の在銘小太刀・第十二回の本阿弥極めの短刀という二口の重要刀剣に拠る。説明書は在銘の定秀が極めて少ないことを捉え、「在銘品が極めて少ない定秀の銘字も非常に貴重」と記す。その作は刀であると同時に資料でもある。重要美術品の太刀の一口は「毛利家初代秀就が後水尾天皇より拝領したものと伝える」ものであり、毛利家と東京の竹中次郎が記録に見える所持者で、現在の所在としては九州国立博物館・伊豫稲荷神社・厳島神社が知られる。在銘の定秀が世に出ることは稀であり、私蔵の一口は古き九州物を求める収集家にとって最も稀なものの一つたり得るもの、入手のしやすさにではなく、豊後の伝統いかに始まったかを語る資料としてこそ価値がある。