雲重は、雲しげ・くもしげとも訓まれるその名のとおり、備前鵜飼派の三代を担う刀工で、宇甘庄に住し銘に「雲」の字を冠するところから雲類と呼ばれた一群の工である。唯一の特別重要刀剣の太刀は貞治七年二月、すなわち一三六八年の年紀を切り、本工を南北朝中期に確と据えて、一派の祖雲生とこれに続く雲次の後を承けた位置を示す。説明書はこの一派を周囲のすべてから際立たせる。その作風は当時の長船本流とは趣を異にし、むしろ山城の来派や備中の青江派に近く、「備前気質の中に京の来派や備中青江派の趣が混在する」ほど個性が強いとして、雲類を備前物中最も異色の存在と呼ぶ。銘鑑は雲重を二代雲生の子とし、現存する年紀作には文和・貞治・応安が見える。
本工の特色ある手は、南北朝中期の長船が知られる華やかな丁子乱れとはむしろ逆である。雲重の本領は直刃および直刃調の刃で、浅くのたれ、これに小互の目・小丁子・小乱れが乗り、足・葉入り、小沸つく。その静かな刃を素朴な備前から引き上げるのは、刃中に織り込まれた沸の働きで、砂流し・金筋が頻りにかかり、ほつれ・喰違刃・打のけを交える。匂出来の長船丁子には乏しく、説明書が一派に結びつける来・大和の筋にこそ通う働きである。貞治七年の太刀では、ほつれ・喰違刃・打のけ・二重刃・湯走りが込み入り、匂深く盛んに沸づいて荒めの沸を交える。帽子は直ぐに小丸、あるいは大和の風情を帯びた作では焼詰めとなる。
地鉄こそ、一派の京寄りの傾きが最もよく現れるところである。雲重は板目を鍛え、しばしば杢を交えてやや肌立ち、地沸よくつき地景入り、その上に標準的な備前の明るい乱れ映りではなく淡い映りが立つ。説明書は、雲類の地鉄が同時代の他の備前物と異なって杢がかり地沸つき映り気乏しいと記す。これは、雲生・雲次の代に京に上って修業し後に後醍醐天皇の御用を勤めたと伝える一派の受け継ぎである。最も大和に傾いた作では、鍛えが殆ど柾となり、刃縁が喰違刃とほつれに崩れ、帽子は焼詰めとなって、ある説明書はこれを備前物の中の大和の作行と読む。
現存作は二つの面に分かれる。第一は生ぶ茎で在銘の一群、その数口に書き下し年紀を負うもので、貞治七年の太刀、貞治六年の短刀、文和の太刀、貞治の薙刀がある。これらでは、茎の刃方の分厚い態、角度の深い鑢目、逆鏨の強調された銘字、そして何より長銘の下にそのまま年紀を書き下すところが、説明書の言うところ「全く青江物に相通ずる」作法に答える。第二の、はるかに多い面は、本工と極められた大磨上無銘の刀で、反り浅く鋒の延びた幅広い南北朝の姿、大太刀を大きく磨上げた体配である。これらについて説明書は時代と系統から所伝を首肯し、丸く返った帽子や小丁子足を交えた直刃を「雲類の見どころ」とし、必ずしも雲重一人の特長ではないとする。
雲重を分かつのは、極めが比較を求めるときにまさに名指すところである。その地刃は繰り返し一見青江と紛れるものと言われ、「一見青江に紛れる」出来とされ、一派は山城来派に近いと位置づけられる。それゆえ年紀のある短刀の静かな直刃が、つみて淡く映る地の上で、備前の地沸と雲類の銘が定めるまではほとんど備中物のように読まれる。説明書はこの効きを一句に約めて、備前気質の中に京の来派・備中青江派の趣が混在し、個性が強く備前物中異色であるとする。本工は京で鍛えた祖から三代を隔てて立ち、その抑えた作域を承け継ぎつつ、自らの代の広がる姿と深まる沸が、相伝の影響を受けてこれを南北朝へと押し進める。
収集の観点では、雲重は潤沢に出る名ではなく、稀で個性の強い名である。藤代の極めは上々作。国宝はなく重要文化財もなく、その記録は特別重要刀剣一口、重要刀剣の一群、戦前の重要美術品三口を通じ、特別重要刀剣・重要刀剣の級で五十七口ほど、指定を受けた作は総じて六十口を数える。うち在銘はわずか十三口で、年紀のある在銘作はさらに稀であり、説明書が在銘の作を出来とともに資料的価値において貴ぶのもそのためである。その作は来歴の確かな旧家・機関に伝わり、黒川古文化研究所がこれを蔵する一口があり、薙刀直しの脇指の一口には伊達家伝来と伝える半太刀拵が附き、戦前の指定は南部家・岩崎家を経ている。ほとんど世に出ることがなく、無銘の刀でさえ稀に、在銘・年紀の作はさらに稀にしか現れぬゆえ、私蔵の雲重は収集家にとって注目すべきもの、備前の最も京に色づいた一隅を語る証である。