西蓮は鎌倉時代末期の筑前の刀工で、『光山押形』に所載される長銘、すなわち文保元年(一三一七)紀の「筑前国博多談議所国吉法師西蓮」と切った太刀の主である。この一銘がその人を解き明かす。国吉は俗名、西蓮は剃髪して名乗った入道銘であり、談議所とは対蒙古防衛のため博多に置かれた政庁、鎮西談議所とみられる。説明書はこれを良西の子・実阿の父と伝え、また大左の祖父とし、左文字を生み出す系譜の頭に立つ工とする。現存する銘文は「国吉」「談議所国吉」「西蓮」「談議所西蓮」の諸様に見え、この役所に仕えた刀工の記録である。
その手は九州古典派の典型で、極めの言葉がこれをはっきりと名指すほどに一貫している。鍛えは板目に大板目・杢を交えて肌立ち、流れごころとなり、時に柾がかる。山城物のよくつんだ小板目ではなく、大模様の肌立つ地鉄である。その上に地沸・地景が細かに入り、かねは黒みをおびて、説明書のいうかな色に黒みがある。多くの作に淡い白け映りが立つが、これは備前の明るい乱れ映りではなく、黒い地鉄の沈んだ映りである。刃文はもう一つの見どころで、焼幅低めの直刃あるいは細直刃を焼き、刃縁ほつれて喰違刃・打のけを交え、上半に二重刃風がかかり、小沸つき、砂流し・金筋かかる。匂口は冴えず、うるみ、時に沈みごころとなる。説明書はこの全体を一語にまとめて、その作を「九州古典派の風を墨守した作域」と評する。
地鉄こそ、すべてを読み解く拠りどころである。板目が肌立って流れ、地沸微塵につき、地景入り、黒いかねが淡い白けを帯びる。これは良西・実阿と共有する地鉄で、幅広の大磨上の作には時に区際に水影をみる。その地に対して直刃は低く静かに、刃縁がほつれて、ある説明書のいう通り「焼刃は直刃がほつれて匂口がうるむ」。ある重要刀剣はその刃を大和物風の直刃と読み、うるみの匂口を九州物に共通する特徴とする。帽子は直ぐ調あるいは浅くのたれて掃きかけ、小丸に返るか焼詰めとなり、太刀・刀には表裏に棒樋、時に添樋を掻き通す。
この一つの手のうちに、説明書はもう一つの register を引く。匂口の淋しい一群の傍らに、沸がより強くついて小沸よくつき匂深く、砂流し・金筋を交え、時に飛焼をみて匂口の明るくなる手があり、これを最も左文字との関係を思わせるものとする。在銘の静嘉堂短刀について、その「後者は左との関係を多く思わせる」と記す。同じ思いはある重要刀剣でより有名に述べられ、「天才児左文字が生まれ出るだけの礎地は西蓮の作に見られる」と評する。もっとも記録の大半は無銘で、官の指定を受けた作のうち在銘はおよそ八口、大多数は大磨上で、時代と一派から本工に極められ、数口は本阿弥家の金象嵌・金粉・朱の極めを伴う。
筑前の西蓮を分かつのは、まさに説明書がその個性として名指すところである。彼は備前の工ではなく、その明るい乱れ映りを見せない。地は黒く肌立って流れる九州の板目に沈んだ白けを帯び、刃はうるみの直刃で、冴えた明るい線ではない。後年の明るい相州風の左とは、その直刃の静かさと華やかさの不在によって分かたれ、しかも沸の強い手はそこへと先を指す。幅広で鋒の延びた大磨上の刀が南北朝の年代を思わせ、ある重要刀剣がその姿から南北朝期とみたいとする一方、後の説明書は鎌倉末期にも鋒の延びた作例が確認されるとして、本阿弥光徳の西蓮極めを妥当とする。結局のところ彼は、左文字へと至る大筑前の系譜が育った静かな根である。
収集の観点では、稀な初期の九州の名である。藤代の極めは上々作。国宝はなく、その記録は重要文化財一口、特別重要刀剣・重要刀剣の級、そして戦前の重要美術品を通じ、官の指定を受けた作はおよそ四十五口、そのうち生ぶ在銘は僅かである。説明書はその少なさを強調し、ある生ぶ在銘の太刀をその資料性が極めて高いものとし、ある特別重要刀剣の刀を「西蓮極めの中でも傑出した出来映え」と称える。その作は来歴の確かな旧家・機関に伝わる。静嘉堂文庫は若杉家旧蔵の在銘短刀を蔵し、作は薩摩島津家、重富島津家、島津義弘の伝来を経て、徳川将軍家、前田家へと下る。特別重要刀剣・重要刀剣の級はわずかで、その多くは伝えられて売り立てられることはなく、在銘の西蓮が世に出ることは稀であり、私蔵の一口は収集家にとって注目すべきもの、左文字に至る大筑前の系譜がいかに始まったかを語る証である。