ある宇多国宗在銘の刀は、ほぼ生ぶの茎の裏に文明十一年(一四七九年)の年紀を負い、この一口の年紀ある刀が、その名の最もよく記録する刀工、すなわち室町中期に活躍した越中宇多派の工を定めている。説明書は初代国宗を、鎌倉末期の文保頃に大和国宇陀郡から越中へこの一線を携えた祖、古入道国光の子であり、国房の弟とする。名はその後、南北朝期から室町末期、さらに新刀期にまで数代相継ぎ、宇多国宗在銘の作は一人の手というより一時代の一派の作風として読まれる。一派の工は個性に乏しいため、説明書は現存の有銘作を個名ではなく姿形と地刃の出来口によって極め、年紀ある作と年紀の鑑し得る作を、宇多派が繁栄した文明頃に置く。
その作は一つの地鉄の上に二様の貌で読まれる。穏やかな方は一派が遂に失わなかった大和の本性で、内反り尋常の平造に護摩箸を彫る生ぶ在銘の短刀に最も素直に見える。ここでは鍛えは刃寄りに柾肌を交えた小板目で、地沸つき地景入り、これに中直刃を焼いて匂口締まりごころに小沸つき、区際は焼込みごころとなり、帽子は直ぐに小丸となる。説明書はこの貌を出自の明示と読み、「流れ柾が交じる鍛えに大和伝をよく表わしており」、「総体に宇多物の特色をよく示している」と評する。
活発な方の貌は一派の室町の乱れであり、説明書はその姿形及び地刃の出来口から文明頃の作と鑑する。時に杢を交え、平らに伏すよりも流れて肌立った板目の上に、互の目を焼いて小のたれ・小互の目・丁子風の刃・尖りごころを交え、足・葉よく入り、小沸つき砂流し頻りにかかる。処々僅かに湯走り・二重刃かかり、最も身幅の広い作では焼幅広く、中程より上は鎬にかかり、物打辺は総体に皆焼風となって、帽子は乱れ込み、沸さかんに飛焼を交えて長く焼下げる。穏やかな作ではその返りが先小丸ごころとなって掃きかける。説明書はある脇指を、「匂口が明るく小沸がよくついた作柄を見せており、同工のみならず同派の特色をよく示した佳品」とする。
両の貌の下に、極めの拠って立つ一つの地鉄がある。流れて肌立つ板目に刃寄りで柾を交え、地沸つき地景が交るこの北国の大和伝の地こそ、刃文だけならば山城や相州の手を想わせ得る宇多の作を、その一派へと戻すものである。彫物もまた同じ大和気質を延ばす。年紀ある脇指は表に長梵字を二つ重ねてその下に素剣、裏に梵字を三つ重ねてその下に掻き流しの腰樋を刻し、説明書はこれを見事とする。銘は目釘孔の下に細鏨あるいはやや太鏨で切る四字銘であり、茎は生ぶか僅かに区を送るに止まって、これらの作を刀であると同時に資料たらしめている。
その作を分かつのは、借り物の比較ではなく、同工自身の地に拠る働きである。流れて肌立ち柾を交えた板目、頻りな砂流し、尖りごころと小のたれを交えた互の目こそ説明書が宇多の特色として挙げる徴であり、これに対して直刃を焼く短刀一口が穏やかな大和の対を成す。説明書はこれが一派の極めであることを明言し、祖の大和から越中への移住、国光からの国宗の系、国房と並ぶその位置、同名の数代の継続を記し、年紀ある作と年紀の鑑し得る作を、姿形と出来口を証として文明頃に擬する。作群を通じて、南北朝期の宇多の相州伝がかった手への相似は沸の働きに現れ、匂口の明るさと肌立った北国の地鉄が極めを宇多一派に留める。
国宗の公の記録はことごとく重要刀剣に位置し、太刀・刀・脇指・短刀にわたって四口の有銘作が現存する。藤代は同工を上作とし、刀工大鑑は三百に位置づける。国宝も重要文化財もなく、誠実な見立ては、名物の連なりではなく重要刀剣の作とその資料的価値に担われた一派の名というところにある。説明書はまさにこの点で年紀ある太刀を挙げ、「この時代の生ぶ茎、有銘の太刀は少く、好資料でもある」とし、年紀ある刀を、この工並びに一派の研究上の貴重な資料であって地刃の出来もよいものと読む。同工の作二口は皇室の御物として伝わり、その作の負う最も高い所伝である。私の蔵家にとって、重要刀剣に位置する宇多国宗の有銘作が市場に現れるのは時に限られ、忍耐を要する。著名な名を追う者よりも、大和伝が北国へいかに携えられたかを学ぶ者にこそ、その作は報いる工である。