説明書は、鎌倉末期の文保頃に古入道国光なる刀工が大和国宇陀郡から越中国宇津へ移住し、宇多派の祖となったと伝える。古入道国光には確かな有銘作をみない。最初期の作は大和色の強さから同工と極められた無銘の刀であり、元応三年(1321年)の年紀をもつ小振りの短刀には「古入道」の朱銘がある。国光の名は一代では終わらない。子の国房・国宗が南北朝期へと門流を伝え、国光の名そのものも室町期に数工が襲い、銘鑑は応永・享徳・明応頃までこれを記す。そこで説明書は、在銘の国光を地鉄・刃文・銘振りによってそれぞれの代に当てている。
説明書がまず挙げるのは大和の本性である。宇多派は元来大和国宇陀郡の出身であるから自然に大和気質が強くあらわれ、国光の作にもそれが明らかである。在銘の一刀は板目が刃寄りに流れ、直刃の刃縁がほつれて喰違風の刃が交じり、帽子は直ぐに掃きかけて僅かに返る。極めの刀では直刃ないし中直刃に時に打のけが交じり、帽子は直ぐに小丸に返り、あるいは掃きかける。元応の短刀について説明書は、「大丸風に焼詰めた帽子は大和出身を物語っている」と記す。
これらを大和物そのものから分かつのは地鉄である。極めの刀の最上の一口について、説明書は一見して大和風としながらも、「地がねにやや黒味があって北国風を示し」、「刃縁の沸のつき方に宇多の特色がみられる」とし、「渋味のある優品である」と結ぶ。南北朝末期から応永頃とみられる在銘の太刀も同じく読まれ、鎬の高い造込みは本国大和の影響によるもので、「地がねが黒みをおびている点には北国物特有の持味を見せている」とされる。応永の国光とされる細身の短刀では、かな色に黒味があって肌立つところが白け、説明書は「かな色に黒みがあるところや刃中につぶらな沸がついている点に宇多派の特色が明示されている」と述べる。指定作の過半に砂流しがかかり、三分の一に金筋が入る。
大和の作域と並んで、説明書はもう一つの作域を認める。宇多派には「越中の先達である則重や江に私淑した相州伝風の作域も存在する」という。表に四字銘「宇多国光」を切る太刀は南北朝後期、ほぼ二代目に当たるとみられ、小板目肌つみ、地景細かく入り、刃文は小互の目に小乱れ交じり砂流し入り、帽子は乱れ込んで先尖りごころに返る。その説明は古宇多の作に、鍛目も地景も細かくかな色の明るいものと、肌立って地景が大きくかな色に黒味のあるものとの二様があるとし、「前者は義弘、後者は則重の流れを伝えているものとおもわれる」とする。大振りの二字銘をもつ長寸の太刀は南北朝を下らぬ作と鑑され、腰反り強く踏張りあり、小互の目・尖り刃・小乱れ交じり処々湯走りかかるが、説明書はなお大和気質が顕著であるとする。
国光は一派の中の一名ではなく、その源である。説明書は鎌倉末期から南北朝期の宇多派の作を古宇多と汎称し、そこに国房・国宗・国次等を数え、一派の記述はすべて大和からの移住に始まる。後代の同名工もその手を保つ。応永の短刀は小振りで内反りの姿に上品な細直刃を焼き、「光」の字は特異な書体で、同様な銘字は光山押形にもみられる。
国光の名で重要刀剣に指定された刀は九口であり、特別重要刀剣・国宝・重要文化財はない。うち六口は銘または銘文をもつ。年紀に朱銘を添えた短刀と、後代の太刀・短刀を含む国光銘の五口である。残る三口は古入道国光と極められた大磨上無銘の刀である。これらに大名家の伝来や美術館の所蔵は記録されておらず、その評価は重要刀剣の作そのものに拠る。この格の国光が市場に現れるのは時折のことで、後代の在銘太刀か極めの祖の刀という形をとり、現存する多くは売買されず所蔵されている。祖その人の作は、北国物の蒐集家が出会い得るもののうちでも稀なものである。