周防国二王派は、保延頃(一一三五〜四一)に清真または清平を祖として始まると伝えるが、本文はいずれにも確実な遺作を見ないと記し、今日では清綱を「事実上の祖」とする。最古の年紀作であり、初代を鑑する基準作でもあるのが、「文永二年三月 清綱」と書き下しの銘のある太刀で、厳島神社に伝存する。以後、同銘は室町時代、さらに新刀期にまで連綿と続き、清綱の名は代を重ねた。二王の呼称は同国仁保庄に居住したことに由来するとの説が有力だが、初代清綱が二王堂の火災に際し自らの作刀で鎖を切り二王尊を助けたとの伝承もあり、派名そのものがこの語呂を負う。本工は鎌倉時代末期、よく記録の遺るこの一派の主たる代の工で、その作位は山城来と大和本国との間に位置する。
作風は大和色の強い地方物で、本文はその理由を明言する。周防には東大寺などの寺領が多く存在し、二王派の作風に「大和色が強い」のは大和本国との交流によるものと考えられている、と。太刀は細身で鎬高く、重ねやや厚め、腰反りの高い鎌倉末期の姿を示し、短刀は平造で僅かに内反りつく。鍛えは板目に少しく杢を交え、総体に流れ、処々強く流れて柾がかり、細かに肌立つ。刃文は細直刃に小足を入れ、小互の目を連れて交え、小沸つき、砂流し・時に金筋がかかる。総体に派手ではなく、静かでよく締まった作位である。
同派が拠り所とする山城・大和の直刃の作と分かつ「同派の個性」として本文が明記するのは二つ、すなわち「白け映りが立ち、刃文がうるむ点に、同派の個性が認められる」というところである。地鉄には冴えた映りではなく白け映りが立ち、これと対をなして匂口がうるむ。腰元はしまり加減で上半がうるみ、来・手掻の直刃に見る冴えた匂口は、ここではより湿った沈みごころの態に替わる。帽子は直ぐに小丸に返る。いずれも冴えではなく静けさの見どころであり、地と刃に名指されたこの静けさこそが極めを定める。
一派は一貫した作域を二つの作位に読む。在銘の太刀・短刀は棟寄りに細鏨の二字銘を切り、原鑢の鷹の羽を残す。本文はその銘字を「古い手の清綱の典型」と評して在銘作を初代に充て、鑢目と銘がともに鮮明に保存される点を喜ぶ。これに対して無銘大磨上の刀は、同じ拠り所を裏から読んで極められる。すなわち流れて柾がかり肌立った鍛え・白け映り・うるみ刃文である。ある刀についてこれらの点を、「二王派、就中、清綱の特色が顕著にあらわれている」と本文は記す。最古手の在銘太刀の一口は地刃に些かの緩みもなく、「同工のみならず同派の特色がよくあらわれている」と評され、稀な生ぶ茎在銘の短刀が形を支える。本文はこの鎌倉末期の手を、名を継いだ南北朝・室町の清綱と分かち、建武二年(一三三五)紀の「防州玖珂庄清綱」銘の短刀が同派の継続を示す。
広い記録の中での位置は、まさに混ざり合うがゆえに読みやすい西国の祖というものである。流れて柾がかる鍛えは本文が周防の寺領に帰す大和の血脈であり、細直刃の素地は山城来を望む。そして両者に対して同派を位置づけるのは、白け映りとうるみの片方ではなく、その二つの組み合わせである。清綱の立ち流れて柾がかる肌は地に白けて映り、刃にうるんで、来の冴えた直刃とも大和の締まった作位とも異なる態を示す。本文が説明ごとに立ち返るのはこの取り合わせにほかならない。一派自身の語るところでは、本工はその最初の知り得る手であり、他を測る代である。
その名を負う指定の重みは、確実な遺作の少ない地方物にふさわしく、数こそ多くないが実がある。最古手の在銘太刀一口が特別重要刀剣、在銘・無銘の数口が重要刀剣、重要文化財二口、戦前の重要美術品三口が基準作に列なる。来歴は遺るところに格がある。重要美術品の太刀の一口は、戦前の認定時に徳川宗家の徳川家達が所有し、後に佐野美術館に納まった。在銘の一口は大阪の加島勲の所蔵から昭和十四年に認定され、静嘉堂に伝わる。基準作たる年紀の太刀は厳島神社に伝存する。遺るものの多くは取引されず手元に留まり、重要文化財は社寺・機関に蔵される文化財であって、特別重要・重要の作とて記録に所在の知れるものが市に現れることは稀である。鷹の羽の鑢目と古い二字銘を残した在銘の清綱は、地方物の鎌倉作を集める者が出会い得る最も稀なもののひとつで、時に、根気をもってあらわれ、現れたときは一里塚となる。