1853年のペリー来航は徳川の泰平をほどき、二世紀ぶりに実用刀の大量需要を生んだ。四谷正宗と呼ばれた清麿はその前夜に世を去り、宗次や行秀が最後の好況を担った。
重要刀剣 源清麿 『 源正行 弘化二年八月日 』 清麿大鑑所載刀 刀剣種別 『脇指・wakizashi』 銘 『源正行 弘化二年八月日』110 『Minamoto MASAYUKI koka 2nen 8gatsuhi』 日本刀 鑑定書『日本美術刀剣保存協会 重要 刀剣』 NBTHK 『Jyuyo Paper』 時代『弘化二年』 Production age 『1845』 刀剣 位列『新々刀最上作』 清麿大鑑 110ページ所載 山浦環源清麿は、本名を山浦内蔵助環といい、文化十年、信州赤岩村(現長野県小諸市)に生まれた。文政十二年に兄、真雄と共に上田藩工河村寿隆の門に入り、初名を「一貫斎正行」と名乗った。天保五年、師、寿隆から贈られた「秀寿」銘を用いたが、何故か同年のみでまた「正行」銘に戻っている。天保六年、江戸に出て、幕臣で兵法家として名高い窪田清音のもとで学び、天保十三年八月から長州萩で一年間作刀している。弘化二年、再び江戸に戻り、同三月秋には、「正行」銘から「清麿」銘に改めた。嘉永七年、四十二歳で自刃した。 この脇指は、彼の得意とする菖蒲造りで、地肌は総体に流れて柾がかり、地沸がつき地景がよく入った鍛に、刃文は互の目乱れに角がかった互の目・丁字風の刃・頭の丸い互の目など彼独特の刃を焼き、足が長くしきりに入り、匂深く沸よくつき、例によって長い砂流し・金筋がかかり、匂口が明るく冴えるなどまさに清麿の本領を遺憾無く発揮した作品である。地刃ともに健全で出来の優れた一口である。 清麿大鑑に所載されており、『地鉄は板目肌がよく詰んで実に美しく、刃文は低い調子のよく揃った互の目乱れに盛んに沸が付き、それに金筋がからみすこぶる美観を呈している。正行時代の優作の一つである』と、清麿の代表作とも言える出来の良さと評価されている。 『形状』菖蒲造、庵棟、身幅広目、重ね薄く、反りやや深く、先反りつき、ふくら枯れる。 『鍛』板目、総体に流れて柾がかり、地沸つき、地景よく入る。 『刃文』互の目乱れ、角がかった互の目、丁字風の刃、頭の丸い互の目など交じり、足長く頻りに入り、匂深く、沸よくつき、砂流し・金筋長くかかり、匂口明るく冴える。 『帽子』乱れ込み先僅かに尖り、さかんに掃掛けやや深く返る。 『茎』生ぶ、先栗尻、鑢目大筋違、目釘穴一、指表目釘穴の下、棟寄りに三字銘があり、裏は目釘穴から二字上げて、棟寄りに年紀がある。『附』白鞘 『寸法(Size)』 長さ(Blade length)45.9cm・反り(Sori)1.2cm 元幅(Width of moto)2.95cm 元重(Thickness of moto)0.85cm 茎長さ13.7cm
清麿は、本名を山浦内蔵助環といい、文化十年信州赤岩村(現長野県小県郡滋野村)に生まれた。文政十二年に兄真雄と共に上田藩工河村寿隆の門に入り、初銘を一貫斎正行と名のった。天保五年、師寿隆から贈られた「秀寿」銘を用いたが同年のみで、また「正行」銘に戻っている。天保六年に江戸に出て窪田清音のもとで学んだ。天保十三年八月から長州萩で一年間作刀し、弘化二年再度江戸へ戻り、同三年秋には、「正行」から「清麿」と改銘した。嘉永七年四十二歳で自刃した。 この脇指は、彼の得意とする菖蒲造で、地肌は総体に流れて柾がかり、地沸つき地景がよく入った鍛えに、刃文は互の目乱れに角がかった互の目丁子風の刃頭の丸い互の目など彼独得の刃を焼き、足が長く頼りに入り、匂深く沸よくつき、例によって長い砂流し・金筋がかかり、匂口が明るく冴えるなど正に清麿の本領を遺憾無く発揮した作品である。地刃共に健全で出来の優れた一口である。











清麿は、本名を山浦内蔵助環といい、文化十年信州赤岩村(現長野県小県郡滋野村)に生まれた。文政十二年に兄真雄と共に上田藩工河村寿隆の門に入り、初銘を一貫斎正行と名のった。天保五年、師寿隆から贈られた「秀寿」銘を用いたが同年のみで、また「正行」銘に戻っている。天保六年に江戸に出て窪田清音のもとで学んだ。天保十三年八月から長州萩で一年間作刀し、弘化二年再度江戸へ戻り、同三年秋には、「正行」から「清麿」と改銘した。嘉永七年四十二歳で自刃した。 この脇指は、彼の得意とする菖蒲造で、地肌は総体に流れて柾がかり、地沸つき地景がよく入った鍛えに、刃文は互の目乱れに角がかった互の目丁子風の刃頭の丸い互の目など彼独得の刃を焼き、足が長く頼りに入り、匂深く沸よくつき、例によって長い砂流し・金筋がかかり、匂口が明るく冴えるなど正に清麿の本領を遺憾無く発揮した作品である。地刃共に健全で出来の優れた一口である。
Yamaura Kiyomaro (shinshinto, Yotsuya, Edo) · 武蔵 · 1839-1854頃
藤代 最上作 · 刀剣大鑑 上位3%
山浦清麿は文化十年、信州小諸赤岩村に郷士信風の次男、刀工真雄の弟として生まれ、内蔵助環と称した。初め上田藩工河村寿隆に鍛刀を学び、初銘を正行、一時師より贈られた秀寿と銘したが同年のうちに正行に復している。幕臣で兵法家として名高い窪田清音の後援を得て江戸に出で、天保十三年八月より長州萩で一年作刀し、弘化二年再び江戸に戻り、同三年秋に四谷伊賀町に住して銘を清麿と改めた。相州伝を得意とすること甚だしく、説明書はその故に世に「四谷正宗」と称せられたと記し、その名声を今日虎徹と並ぶものとして、新々刀中の第一人者であること論をまたずとする。嘉永七年、四十二歳で自刃して果てた。
彼の狙いとするところは、説明書の言葉を借りれば「相伝上位」であり、新々刀中で最も相州伝がよくあらわれた手である。刃文は互の目乱れに小のたれを交え、足入り、沸厚く処々荒めに叢となって荒沸叢立ち、その作はまさに「覇気に満ちている」[[c:1]]。長い金筋と盛んな砂流しは正行銘・清麿銘の両期を通じて大半の作にかかり、沸を本位とした刃中の働きであって、説明書はこの強い地鉄に交わる金筋・砂流しの働きを見事と称える。帽子は乱れ込み、尖りごころに掃きかけ、時に突き上げて先尖り、あるいは小丸となる。
地鉄はやや肌立つ流れごころの板目をよくつめ、時に大肌を交え、地沸を微塵に厚く敷き、地景頻りに入り、かね冴える。鍛えが小板目につまれば地はいよいよ冴える。成熟した刀は身幅広く先反りつき、中鋒延び、あるいは大鋒となってふくら枯れ、堂々として鋭い。
作は二つの時代と一つの得意の調子に読まれる。初期の正行銘の作は少なくなく、正行・源正行・山浦正行・山浦環正行、そして「環」一字の銘を切り、天保四年から弘化三年にわたる二十六口ほどがあり、「於萩城」「於長門国」と添えた萩の作、「於信小諸城」と添えた小諸の作を含む。最も早い天保四年紀の脇指は注文者窪田清音の名を刻し、松代在住期にすでに両者の交流があったことを示す。説明書は後年のものほど刃中の砂流し・金筋の働きは豊富ではないが、匂口はさすがに明るいとする。この期の作はつんだ板目にしばしば柾がかり、丁子や尖りごころを交えた互の目を焼き、匂深く小沸つく。成熟した清麿の手は右に述べた相州伝の典型である。その中で最も得意とした調子が志津であり、説明書は「志津伝は得意中の得意」[[c:4]]とし、すでに初期の手にもこれを読んで、天保十一年の小出来の刀を「志津伝の傑作」と称する。この調子は彼が好んだ菖蒲造・冠落造の脇指と短刀に集まり、小湾れ調に互の目・丁子を交え、荒沸叢になって華やかに乱れる。
清麿を同時代の新々刀工から分かつのは、この相州への遡りである。彼は当時の備前写し・虎徹写しを越えて相州の名匠を仰ぎ、志津三郎兼氏を範とした。地沸・地景厚く、荒沸に富み、金筋・砂流しの盛んな彼自身の地刃こそが評価の的であり、説明書はある作を「同作中の白眉」とし、また別の作を「清麿の本領が遺憾無く発揮」[[c:3]]されたものとする。藤代の最上作の極めと彼の名を冠する一門は、門人清人ら清麿伝を通じて相州復古の手を後世に伝える。
藤代の極めは最上作、刀工大鑑の評価も新々刀中で高い。国宝・重要文化財はなく、その位置は現代の指定の級に拠り、特別重要刀剣一口、重要刀剣六十八口、うち四口は戦前に重要美術品にも認定され、指定を受けた作は七十三口で、すべて在銘である。説明書は現存作を恐らく百余口とし、尋常の鎬造定寸のものは比較的少なく、嘉永元年紀の大小揃いは他に例なきものと記す。記録に残る作は確かな来歴を辿り、岩崎家とその蔵する静嘉堂文庫、大小を註文した松代藩士、後援者窪田清音、牧野周防守康重、そして一口の重要刀剣が愛刀と伝える幕末の剣客中条金之助の手を経ている。その多くは伝えられて市場には出ず、特別重要刀剣・重要刀剣の清麿が世に出るのは時折、しかも最上位に限られ、私蔵の在銘作は新々刀を集める者が出会い得る注目すべきものの一つである。
清麿の位置づけを、日本刀全体および伝法・時代・時期ごとに示します。各区分(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
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在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
新々刀 · 武蔵
現在16点販売中
清麿一門は、十九世紀中頃の江戸に興った新々刀の一派で、相州伝の豪壮な復興をその核に据える。中心に立つのは山浦清麿で、文化十年信濃小諸赤岩村に郷士信風の次男として生まれ、はじめ内蔵助環と称した。上田藩工河村寿隆に鍛刀を学び、初銘を正行とし、一時師より贈られた秀寿と銘したのち同年のうちに正行へ復している。天保六年、兵法家として名高い幕臣窪田清音の後援を得て江戸に出で、天保十三年から一年を長州萩で送り、弘化二年に再び江戸へ戻って、翌三年秋に四谷伊賀町に住して銘を清麿と改めた。相州伝を得意とすること甚だしく、世に四谷正宗と称せられた。その糾合した門には、信濃以来の同じ道を歩んだ兄真雄、越後三条より鏡師を廃して入門した栗原信秀、羽州庄内より出府して師の刀債を後に完済した斎藤清人らが連なり、嘉永七年の清麿自刃の後も、その相州復古の手は幕末から明治初年へと伝えられた。 一門を貫く語法は、五百年を遡って相州に通う沸本位の作風にある。やや肌立つ流れごころの板目をよくつめ、地沸を微塵に厚く敷き、地景頻りに入って鉄が冴え、映りはない。その上に互の目乱れに小のたれを交え、沸厚く処々荒めに叢立ち、長い金筋と盛んな砂流しが頻りにかかる覇気ある刃を焼く。帽子は乱れ込み、尖りごころに掃きかけて返る。この共通の地刃の内に、各工の手が分かれる。清麿は志津三郎兼氏を仰いだ志津伝を得意中の得意とし、その地沸・地景の厚さと荒沸の富みにおいて一門を圧して、菖蒲造・冠落造の脇指や短刀に華やかな乱れを見せる。信秀はその志津の調子に最もよく迫った手で、説明書はその技を一門中最も師に迫るものとし、互の目に尖り刃・角互の目を交えて砂流し・金筋を頻りにかけるが、覇気と迫力は師に遠く及ばないとも率直に記す。彼ひとりの見どころは鏡師の修業に発する彫物で、草の倶利迦羅・珠追竜・竜乗り観音など多彩な図柄を刻み、一派中で彫物を伴うのは彼の刀のみである。真雄は寿隆風の丁子に始まって相州伝に転じた弟と同じ展開を辿るが、説明書は地景・砂流し・金筋がやや少なく出来が清麿に及ばないとし、なお優作では地沸厚く強い鍛えを称える。清人は頭の丸い互の目を主調に長い足と豊かな沸を保って師風を忠実に継ぐ一方、清麿には見られぬ大和伝の直刃を独り保ち、よくつんだ小板目に微塵の地沸を敷いて地刃の冴えた直刃を焼く。 鑑定の勘所は、まずこの相州への遡りにある。同時代の新々刀工が備前の丁子や虎徹の詰んだ地鉄を写したのに対し、本一門は地沸・地景厚く荒沸に富み金筋・砂流し頻りなる地刃を、借りものの模様によらずその力強さと明るさによって示す。姿もまた手がかりで、身幅広く元先の幅差少なく、鎬幅狭く平肉つかず、大鋒の延びてふくらの枯れた豪壮な体配が一門独特のものとされる。位列にあって清麿は晩年のあらゆる刀工の中でも最も人気の高い一人で、藤代はこれを最上作とし、真雄を上作、信秀・清人をこれに次ぐ手とする。国宝・重要文化財はなく、その地位は今日の指定の級と僅かな来歴に拠る。来歴は広汎というより確かで歴史に響くもので、清麿の作は岩崎家と静嘉堂文庫、後援者窪田清音、大小を註文した松代藩士、剣客中条金之助の手を経、信秀の片切刃の脇指は将軍慶喜への献上と伝え越後三条の八幡社にも伝わり、清人の一口は亡師の遺志を託されて稜威尾羽張の神号を刻む。多くは伝えられて市場には出ず、在銘の作が世に現れるのは時折に限られるが、年紀を備えたその一口は、相州が江戸に甦った瞬間を語る証として、新々刀を集める者の前に立つ最も報いある手の一つである。 詳しく見る →
幕末 最後の需要
1853年のペリー来航は徳川の泰平をほどき、二世紀ぶりに実用刀の大量需要を生んだ。四谷正宗と呼ばれた清麿はその前夜に世を去り、宗次や行秀が最後の好況を担った。
特別保存刀剣の中から、特に出来が優れ、国認定の重要美術品に準ずると判断された名品です。年に一度の重要刀剣審査で選ばれます。
極めて選別的で、日本に登録された約250万口の刀剣のうち、重要刀剣に達したものは12,348口(約202口に1口)にすぎません。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト商品がお手元に届きましたら破損がないか、ご注文の商品と相違ないかを直ちにご確認ください。※返品に際する送料は当店で負担致します、着払いでお送り下さい。※お品代以外の費用は返金できません。