1800年前後、水心子正秀は著述をもって、鍛刀は古作の法に立ち返るべしと説いた。復古刀の運動である。最大の後継者直胤は、数百年絶えていた備前伝と相州伝を確信をもって再現した。
手柄山正繁の重要刀剣、脇差しながらこの迫力、正に豪壮無比、濤瀾風の大乱れの傑作です。 正繁は、三木朝七と言い、宝暦十年の生まれ、播州姫路工、二代氏繁の子で、三代氏繁の弟に当たり、初銘は『氏重』、後に四代目氏繁を襲名、天明八年、奥州白河藩主松平定信(楽翁公)の抱え鍛冶となり、江戸神田の松平下屋敷へ移住、『正繁』と改めました。享和三年に『甲斐守』を受領、文政四年頃には一時大坂でも鍛刀、晩年には楽翁公より『神妙』の二字を賜り、会心の作にはこれを切ると云い、入道して丹霞斎と号しました。 津田越前守助廣に私淑した濤瀾風の大乱れを得意とし、新々刀期に於いては、同時代の水心子正秀、尾崎助隆らに勝るとも劣らない濤瀾刃の名手として名を馳せました。 年紀作に見る活躍期は、寛政元年から文政十三年まで、同年七十一歳没と云います。 銘振りは、『手柄山氏繁』、『奥州白川臣手柄山正繁』、『手柄山甲斐守正繁』、『甲斐守正繁入道丹霞斎』などと切ります。 本作は、同工の典型作とも言える濤瀾風の大乱れの最高傑作、昭和五十五年(一九八〇)、第二十七回重要刀剣指定品です。 同工三十三歳の作で、寸法一尺五寸九分、元幅3.63、先幅も2.77cmで重ねも厚く、地刃すこぶる健全、刀身がズシッと重いです。 濤瀾風の大互の目乱れ主体の刃は、刃縁明るく冴え、僅かに棟焼き掛かるなど、同工の真骨頂とも言える、素晴らしい出来映えです。 茎裏には、切付銘が色々とありますが、まず『尺有所短寸有所長』、これは中国に古くから伝わることわざの一種で、『尺にも短きところあり、寸にも長きところあり』と読みます。一尺と一寸の違いを優劣に喩えた四字熟語、『尺短寸長(せきたんすんちょう)』の語源で、『どんなに優れた人にも劣った所はあり、劣った人にも優れた所はある。人にはそれぞれ長所と短所がある。どんな人、物にも必ず取り柄はある。』などの意で使われます。 『古河藩隠士小杉為長佩刀』は、古河藩士で、後に隠士(いんし)となった小杉為長の所持刀であった旨を刻してあります。古河(こが)藩は、下総国葛飾郡(現茨城県古河市)に存在した藩。隠士は、特に名声や利得を求めず、また自らの信念や道徳観を守り通すため、俗世を離れて静かな生活をする者。隠者とも。 本作を『尺短寸長』を引用して評すると、刀に比べて短いですが、これだけ迫力のある豪壮な脇差しならば、刀を上回る破壊力、殺傷能力を備えていると言えるでしょう。 付属の外装も当時のオリジナル、藍鮫に蝶鮫を合わせた鞘は雰囲気抜群で、金具類もピシッと揃った大変気持ちの良い一作、状態も良好です。 これは物凄い手柄山正繁、同工の重要刀剣んの中で、刀も含めて、本作が最も身幅が広いでしょう。 新々刀脇差しで重要になっている作なので、欠点など見当たりません。
正繁は本国は播州姫路で、三代目手柄山氏繁の弟にあたり、初め四代目氏繁を襲名し、のち正繁と改名した。天明八 年に奥州白河の楽翁松平定信の抱え工となり、江戸に移り住み、享和三年四月に甲斐守を受領し、藩公より 「神妙」の二 字を賜わった。作風は総じて津田助広に私淑したものが多いが、この脇指も濤瀾風の大互の目を焼いて出来がよい。古河 藩士小杉為長の注文に応じたもので、古諺の意は一尺は一寸よりも長いが、時に一尺のものも長いがためにかえって役立 たないことがあり、短かい一寸のものが短かいがためにかえって役に立つこともあるということをあらわしたもののよう である。






正繁は本国は播州姫路で、三代目手柄山氏繁の弟にあたり、初め四代目氏繁を襲名し、のち正繁と改名した。天明八年に奥州白河の楽翁松平定信の抱え工となり、江戸に移り住み、享和三年四月に甲斐守を受領し、藩公より 「神妙」の二字を賜わった。作風は総じて津田助広に私淑したものが多いが、この脇指も濤瀾風の大互の目を焼いて出来がよい。古河藩士小杉為長の注文に応じたもので、古諺の意は一尺は一寸よりも長いが、時に一尺のものも長いがためにかえって役立たないことがあり、短かい一寸のものが短かいがためにかえって役に立つこともあるということをあらわしたもののようである。
手柄山 · 播磨 · 1789-1801頃
藤代 上々作 · 刀剣大鑑 上位23%
現在1点販売中
手柄山正繁は十八世紀末の播磨の刀工で、大坂の濤瀾乱を新々刀の復古に伝えた工であり、その年紀作は寛政年間に始まり、江戸駿河台で鍛えた作に及ぶ。姫路の手柄山一派に属し、初代大和大掾藤原氏繁の末流で、手柄山の麓に住したことから代々これを姓とした。説明書は、三代氏繁の弟で、初め氏繁と銘して四代を継ぎ、のちに正繁と改めたとし、通称を朝七、号を丹霞斎という。天明八年の冬、奥州白河の藩主楽翁松平定信の抱え鍛冶となって江戸に移り、神田駿河台に住した。茎に繰り返し「奥州白川臣」と切るのはこの主従のゆえで、生国播磨ではなく主君の北国の領地を名のる。享和三年に甲斐守を受領し、藩公から「神妙」の二字を賜り、会心の作にのみこれを切ったという。
その手は、津田越前守助広に私淑して学んだ濤瀾乱であり、説明書はこれを最も得意とした作風とする。刃文の記述に濤瀾を挙げるのは指定作十三口のうち六口で、さらに三口を説明書が濤瀾の典型作と読み、ほかは彼がまた能くした穏やかな刃を焼く。身幅広く反り浅く中鋒の延びる姿に、元を直ぐの焼出しに始め、その上に大互の目を濤瀾の波のように高く焼く。説明書はその手を「津田助広の作風に私淑して」[[c:1]]、「濤瀾乱を最も得意としており」[[c:2]]と記す。大坂の手本をただ写すのと異なるのは乱れの形の整いであり、会心の作について説明書は「大互の目を主調とした乱れの形はくずれることなく整然と」[[c:3]]焼かれ、小沸がむらなく厚くつき、地刃共に明るく冴えるとする。
その大互の目の刃には尖りごころの刃が交り、説明書はこれを偶然ではなく同工の特徴とし、ある刀について「尖りごころの刃が交じっているが、これは同工の特色である」[[c:4]]と記す。処々には矢筈風の刃も入り、「矢筈風の刃が交り」[[c:5]]というある脇指では、説明書はこれを「言之進照包を意識したもの」[[c:6]]と読み、彼の濤瀾を助広一者の手本を越えて広げる。帽子は直ぐに小丸となり、時に掃きかけを伴って返りを長く焼き、最も働きのある作では刃縁に飛焼・湯走り・棟焼が集まり、説明書はこれを「打ち寄せる波濤」に喩える。
地鉄はよくつんだ小板目に地沸厚くつき、処々無地風の静かな肌に落ち着き、最もよいものは地沸微塵につき鉄が冴える。濤瀾のほかに説明書は、いま一つ彼自身の作風として、焼幅の広い浅いのたれを挙げ、匂深く小沸よくつくとする。これは大小や数口の脇指に見る手で、寛政七年紀の大小について説明書は、浅いのたれに大小の出来がよく揃うと記す。説明書はまた、江戸で「水心子正秀に学んだ」[[c:7]]と伝え、その作は助広以来の大坂の継承と、同時代の江戸の新々刀の学びとを兼ねる。龍・梵字・三鈷柄剣などの彫物をみずから施し、第七十回指定の脇指は茎に彫も同作と記して、説明書はその資料的価値を高いとする。文政の初め頃には一時大坂でも鍛刀し、のちに江戸へ戻った。
その見どころは、彼が私淑した大坂の手本に照らしてよく読める。助広の濤瀾が創始の型であるのに対し、正繁のそれは、元を開く直ぐの焼出しと、波頭に交える尖り刃・矢筈風の刃、そして大互の目の形をくずさぬ整いで見分けられる。彼は姫路の手柄山一家に立ち、三代氏繁の弟として、その名を白河の大名の抱え工として伝えた工であり、説明書は助広の濤瀾に倣うその作風を上手とする。その作は銘文によっても分かたれ、年紀のみならず武陽駿台の作刀地、時には鉄そのものを記し、石州出羽鉄を以て鍛えた一刀は、説明書が固山宗次の例に比して好資料とする。
正繁は藤代に上々作とされ、新々刀の上手の工であり、指定は重要刀剣十三口で、これが彼の指定のすべてである。その作は個人の収集家が現実に出会いうる種類の刀で、多くは長く伝えられて記録の乏しい手にある。伝来はわずかだが具体的で、一口の脇指は古河藩士小杉為長の注文によるもので、裏に長短の用を説く古諺と所持者の銘を刻む。彼の刀が市場に出るのは折にふれてのことであり、銘と年紀を具え自作の彫を伴う一口、あるいは会心の作に切った「神妙」の二字を負う一口は、現れたとき一層注目に値する。新々刀の復古の濤瀾を、大名の抱え工の手で求める収集家にとって、正繁は確かな名の一つであり、匂深く明るく冴える匂口は、説明書が上手と呼ぶその手の変わらぬしるしである。
正繁の位置づけを、日本刀全体および伝法・時代・時期ごとに示します。各区分(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
新々刀 · 播磨
現在9点販売中
手柄山は播磨国姫路を本拠とする新々刀期の一門で、説示によれば手柄山の麓に住したことから代々その地名を姓としたという。一門の中心となる正繁は、通称を朝七といい丹霞斎と号した工で、三代目手柄山氏繁の弟にあたり、初め四代目氏繁を襲名したのち正繁と改めている。初代大和大掾氏重の末葉であると記され、播州姫路に系譜を引く家系であることがうかがえる。天明八年、奥州白川(白河)の藩主松平定信の抱え鍛冶となって江戸に移り住み、神田駿台を作刀の地とした。享和三年四月には甲斐守を受領し、文政の初年頃には一時大坂でも鍛刀したのち再び江戸に戻っている。晩年には楽翁すなわち松平定信から「神妙」の二字を賜り、会心の作にこれをきったと伝える。一説に江戸に出て水心子正秀に学んだとも記され、姫路に発した手柄山の鍛冶が藩公の抱え工として江戸へ展開していった経緯が説示の各所に共通して語られる。 作風は、説示が一様に記すとおり、津田越前守助広に私淑した濤瀾風の大互の目乱れを本領とする。鍛えは小板目肌がよくつみ、地沸が厚くつき、地景が細かに入って地鉄の冴える点が共通して挙げられる。刃文は元を直ぐに焼き出し、その上にのたれや大互の目を交えて濤瀾状の乱れを焼き、足・葉が入り、匂深く小沸がむらなく厚くつくものが多い。処々で強く沸づき、飛焼・湯走り・棟焼・島刃を見せ、砂流しがかかり金筋が頻りに入って、匂口が明るく冴えるのを特色とする。帽子はおおむね直ぐに小丸へ結び、掃きかけのかかるものもある。乱れの間に尖りごころの刃を交えるのは同工の特色と説示が指摘しており、また矢筈風の刃を交える作も認められる。濤瀾乱を主調としながら、説示にいう浅いのたれや直刃の作域も併せ持つ。茎は生ぶで先を浅い入山形とし、鑢目を大筋違に化粧をかけ、指表棟寄りに太鏨大振りの長銘を、裏に年紀や作刀地・注文者銘をきる構成が、見分けの手がかりとして繰り返し記されている。 鑑定の要点は、整然と崩れず焼かれた大互の目を主調とする濤瀾乱、むらなく厚くつく小沸、明るく冴える地刃の働き、そして尖りごころの刃という同工の癖にある。説示には、珠追龍や梵字・三鈷柄剣、昇龍といった刀身彫刻を正繁自身が手がけた作が挙げられ、茎にその旨を記すものもあって資料的価値が高いとされる。年紀のあるものは寛政から享和に及び、東武駿台・武陽駿岱と記す江戸作のほか、石州出羽の鉄を用いたと銘するものや、古河藩士小杉為長、渡辺崎右衛門美政らの注文に応じた作が伝わる。松平定信の抱え工として江戸に出て助広風の濤瀾乱を得意とした上手の工として、説示は手柄山正繁を新々刀の一典型に位置づけている。[[c:1]] 詳しく見る →
新々刀 復古の運動
1800年前後、水心子正秀は著述をもって、鍛刀は古作の法に立ち返るべしと説いた。復古刀の運動である。最大の後継者直胤は、数百年絶えていた備前伝と相州伝を確信をもって再現した。
特別保存刀剣の中から、特に出来が優れ、国認定の重要美術品に準ずると判断された名品です。年に一度の重要刀剣審査で選ばれます。
極めて選別的で、日本に登録された約250万口の刀剣のうち、重要刀剣に達したものは12,348口(約202口に1口)にすぎません。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
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