江戸は刀の目利きの時代である。本阿弥の鑑定、1719年の享保名物帳、盛んな刀剣書が、戦で抜かれることのなくなった刀を学問の対象へと変えていった。
This robust tanto from the forge of Yasuchika is a late Edo period Shinshinto work. Yasuchika was the son of Hidechika and both were teppo kaji (matchlock gun makers) so their knowledge of making strong steel was paramount. It was not unheard of for gun and armor makers to cross over into sword smithing to supplement their income as there was limited demand for armor and guns. Yoroidoshi are thick in kasane, and quite heavy in hand as they are intended for piercing armor lams or chain mail. They also have a sori called “uchizori”. Instead of curving upward through the length of the sword, these have a little reverse sori that drops the point toward the linear center of the blade. This promotes the translation of force from the hand through the center of the length of the blade during the action of stabbing and therefore less upward deflection again harder targets as a normal sori or even a sword with no curvature would have. The thick cross section and full niku also reinforce the structure of the sword for durability and increased mass that add to piercing force. The forging in this tanto is impressive and the shape intimidating. The large itame hada has areas of mokume and is filled throughout the length with dense black swirls of chikei and jinie as a Shoshu sword should. These chikei are regarded as an indication of a sword’s qualitative composition and material strength. The hamon is komidare based on suguha in ko-nie deki. Fine ashi and yo are inserted in the yakiba, and the habuchi is strewn with kinsuji, inazuma, and even a little sunagashi. Whirls of activity are contained in the komaru boshi, and kinsuji stream back into the ji from it. This sword is an obvious nod to Etchu Norishige’s work style. It is in good polish, has a solid silver habaki, a nice shirasaya, and three papers all documenting the authenticity and quality of the piece. Nothing left to do but enjoy!
取扱店 Legacy Swords
写真に鑑定書が写っていますが、当サイトの記録にはまだありません。鑑定書は日刀保、日本刀剣保存会、そのほかの団体など、さまざまな団体から発行されます。私たちが第三者による確認として頼りにしているのは、現在有効な日刀保・日本刀剣保存会の審査の鑑定書だけですので、どの団体の鑑定書かを刀剣商にお尋ねください。 — Hoshi


















相州伝 · 相模
現在34点販売中
相模国鎌倉の地に興り、沸を主たる表現とした相州伝を確立した一門である。事実上の創始者は新藤五国光で、粟田口国綱の子と伝え、その地鉄には師仕込みの小板目によく約んだ精良さが残る。永仁元年(一二九三)紀の在銘短刀を最古とし、居住地を銘に明記して年紀を遺す生えぬきの相模刀工の祖と称すべき工である。国光は粟田口の精良な地鉄を承けつつ、地景と金筋を著しく強調する一面を加え、その門下に行光、正宗、則重の三名人を育てた。国光の精到な沸の直刃は、後にこの三者が沸の乱れへと展開する源流となり、ここに相州伝の地盤が据えられた。行光は正宗よりやや先輩とみられ、正宗が頂点に立ち、その門から養子の貞宗が正系二代を継ぐ。則重は越中にあって相弟子として一門を支え、南北朝期には広光と秋広が皆焼を完成させ、越中へは郷義弘が相州伝を西漸させて、一門は諸国へと広がった。 作風の核は、鎌倉後期に始まる沸の表現にある。鍛えは板目に杢を交え、地沸が微塵に厚くつき、太い地景が頻りに入って明るく冴え、刃文はのたれに互の目を交えた沸出来で、匂深く沸厚く、金筋と砂流しが躍動し、帽子は単なる小丸に終わらず盛んに掃きかける。これが一門を貫く共通の語法である。その内部には明瞭な展開がある。国光の抑制された沸の直刃から出発し、行光は師に直結する穏やかな乱れを保ちつつ帽子に火焰風の掃きかけを見せ、正宗に至って炭素量の異なる数種の鋼を駆使した沸の妙が極まり、地にこぼれた沸が湯走りをなし、破墨山水を見る趣の自在な出来口に達する。則重はこの沸の変化をさらに露わにし、太い地景が松皮の如く肌立つ松皮肌を看どころとした。貞宗は正宗より穏やかなのたれ調に持味を移し、梵字、素剣、護摩箸、二筋樋など相州随一の彫物を加えて、これを信国へ伝えた。さらに広光と秋広は、貞宗にわずかに兆していた湯走りを推し進め、飛焼、湯走り、棟焼が地と棟にさかんにかかる本格的な皆焼を完成させた。広光は頭の丸い団子丁子を交え、秋広は地が一段と肌立って荒らびごころを帯び、ここに鎌倉の精良な直刃から南北朝の華麗な皆焼へという内的な展開が完結する。郷義弘は帽子を一枚風に深く焼く点に独自を示し、高木貞宗と新藤五国広は師風を近江と相模に静かに継いだ。 鑑定にあっては、まず明るく冴える鉄、厚い地沸、繁き地景、そして掃きかける帽子で一門を相州と読み、次に世代ごとの看どころで工を分かつ。国光は翁の髭と称する金筋を交えた精良な直刃短刀、行光は穏やかな乱れに掃きかける帽子、正宗はのたれ基調の烈しい沸崩れと垢抜けた地刃、則重は沈みごころの匂口と松皮肌、貞宗は穏やかな互の目と豊かな彫物、広光は団子丁子の皆焼、秋広は肌立つ地の皆焼、郷は一枚風の深い帽子と一段と冴える地刃という具合に、看どころが工と時代を指し示す。国光、行光、正宗、則重、貞宗、郷、広光、秋広はいずれも藤代の最上作に列し、なかでも正宗はその名を負う指定の重みが比類なく、相州伝の頂点に位置する。一門の作には名物陸奥新藤五、太郎作正宗、御堀出貞宗、大久保江、大倶利迦羅広光などが連なり、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康をはじめ天下を握った者の手を経て、皇室や諸大名家に伝わった。正宗や郷のごとく在銘の確実作を遺さぬ工が多く、その大半は大磨上無銘の極めとして知られるため、一門の作が市に現れることはこの分野で最も稀な出来事のひとつである。本一門の沸出来は山城来や美濃志津をはじめ諸国の鍛冶に承け継がれ、正宗十哲の名のもとに相州伝は日本刀の作風そのものを規定する規範となった。 詳しく見る →
江戸時代
江戸は刀の目利きの時代である。本阿弥の鑑定、1719年の享保名物帳、盛んな刀剣書が、戦で抜かれることのなくなった刀を学問の対象へと変えていった。
刀剣商の出品ページで鑑定書を確認できませんでした。日本刀および刀装具は通常、NBTHK(または NTHK)の鑑定を受けます。鑑定書がない場合、極めは刀剣商の見解にとどまり、第三者による確認は行われていません。ご購入前に刀剣商へ鑑定書の有無をお問い合わせのうえ、慎重にご判断ください。
$2,850