1853年のペリー来航は徳川の泰平をほどき、二世紀ぶりに実用刀の大量需要を生んだ。四谷正宗と呼ばれた清麿はその前夜に世を去り、宗次や行秀が最後の好況を担った。
日本刀 剣 銘 宗次(日本美術刀剣保存協会 保存刀剣鑑定書付) 【解説】 概要 本作は、日本美術刀剣保存協会(日美工)により「保存刀剣」に鑑定された、新々刀期の「宗次」銘の剣です。新々刀とは、明和頃(1760年代)から明治初年にかけて打たれた刀剣を指します。この時代には「宗次」を名乗る刀工が複数存在しており、本作については特定の宗次まで個体特定はなされておりませんが、当時の確かな作域を示しています。 剣(つるぎ)とは 剣は両刃の造り込みであり、古来より仏教と深い関わりがあります。本作の注文主もまた、篤い仏教信仰を持っていたことが推察されます。剣は不動明王が右手に持つ「倶利伽羅剣」を象徴しており、不動明王は大日如来の化身とも言われます。この剣は、人間の根源的な煩悩である「三毒(貪・瞋・癡)」を断ち切るものと信じられてきました。その象徴性から、本作も「御守刀」として制作された可能性が高いと考えられます。 本作には、日本美術刀剣保存協会が発行する「保存刀剣鑑定書」が付属します。これは、美術的価値が高く、保存状態が良好な真作の日本刀であることを証明するものです。 【刀身】 長さ(刃長):19.1 cm 反り:0 cm 刃文:焼入れによって刃先に現れる結晶構造 地鉄(肌):鍛錬の過程で現れる鋼の表面模様 切先:刀身の先端部分 茎(なかご):柄に収まる中心部分。日本刀の茎には、赤錆を防ぐために意図的に残された「黒錆」が付着しています。この錆色や経年変化は、専門家が制作年代を推定する際の重要な指標となります。 【外装(拵)】 拵は、鞘、柄、小柄などの諸工作で構成される日本刀の外装です。 縁頭:柄の両端(上部と底部)を保護し装飾する一対の金具。 柄・目貫:柄は刀を握る部位であり、目貫はその装飾です。 本作の目貫は銅製と思われ、時代を経た独特の風合いを湛えています。長年の使用による摩擦や経年変化で細部は摩耗していますが、複数の植物を組み合わせた意匠と見受けられます。その一つは「石榴(ざくろ)」ではないかと推察されます。石榴は約2000年前にペルシャからシルクロードを経てアジアへ、日本へは平安時代に伝わったとされています。当時は観賞用や薬用として重宝されました。 石榴は子孫繁栄を象徴する吉祥果であり、仏教では「吉祥果」と呼ばれます。鬼子母神が手に持つ果実としても知られ、子宝や一族の繁栄を願う仏教思想が反映されています。千人の子を持ったとされる鬼子母神の伝承とともに、信仰の対象として尊ばれてきました。






















新々刀 · 武蔵
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固山宗次は享和三年奥州白河に生まれ、俗名を宗兵衛(惣兵衛)といい、一専斎・精良斎と号した。兄に宗平・宗俊がいる。師は加藤綱英と伝えられるが、その作風から勘案すれば、むしろ加藤綱俊の影響力が大きいものと思われる。初めは白河松平家の抱え工であったが、藩が勢州桑名へ移封の後は、江戸に住して桑名藩工として作刀し、その居住地は麻布永坂であった。弘化二年に備前介を受領している。作刀期間は文政の後半から明治初年の頃までに亘り、その遺例は非常に多い。十九世紀中頃、新々刀の世にあって備前伝を一貫して標榜し、藩の庇護のもと奥州出身の一工が江戸において備前復古の作風を遂げた点に、本系の出発がある。門人の泰龍斎宗寛は文政初年に大野平蔵の子として奥州白河城下に生まれ、宗次を鍛刀の師とした。後に生まれ故郷の阿武隈川を姓に用いて阿武隈川宗寛と銘し、嘉永初年頃から下総国古河藩の抱え工となり、安政四年八月頃から銘を楷書体から隷書体へ改め、明治十六年一月に歿している。 作風は一貫して備前伝で、よくつんだ綺麗な鍛えに匂勝ちの丁子乱れを焼いて成功している。地鉄は小板目肌がよくつみ、ときに板目が総体に流れ、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに頻りに入り、淡く映り立つものがある。刃文は丁子・互の目丁子を基調に、小丁子・尖り刃・角ばる刃・小互の目など多種の刃を交え、足長くよく入り、匂勝ちに小沸つき、細かに砂流しや金筋がかかり、匂口が明るく冴える。見分けの要は、後期作に見る丁子の肩を並べて整然と焼いた型押し風の刃取りと、前期の天保年間に多い焼に高低のある変化に富んだ華やかな乱れとの差にあり、後者には沸の強くつくもの、肌目の立つ強い鍛えがまま見られる。帽子は乱れ込んで小丸、あるいは先がくびれて地蔵風に丸く返るものがあり、同工独特の見どころとされる。截断銘を伴う作が多く、千住での試し斬りに係り、伊賀乗重・山田浅右衛門・後藤新太郎・後藤利義らの名が銘に見える。門系には宗寛のほか、截断銘に名の挙がる舞鶴友英、また「宗」字を用い茎の鑢目を切りとする点から弟子と推される金剛斎宗弘がいる。 鑑定の要は、新々刀期の身幅広く重ね厚く大鋒に結んだ豪壮な姿に、明るく冴えた備前伝の丁子乱れを焼く点にあり、前期は変化に富み、後期は小模様の刃が連れて型押し風となる作域の推移を押さえることにある。代表作には、楠正成所持と伝える国宝小龍景光を生ぶの状態に再現して写し、門弟宗寛が倶利伽羅と長梵字を彫った弘化四年の一口があり、宗次が末備前・応永備前に倣う備前物を多く遺したことを示す。また相州荏柄天満宮の社宝たる正宗庖丁を写し、金工東龍斎清寿が本歌同様の彫を加えた天保十一年の奉納脇指は、江戸の両巨匠の合作として稀有であり、宗弘の同手の写しも存する。截断銘に見える伊賀乗重は尾張藩付家老成瀬家の臣で、様斬の技を山田浅右衛門に、鍛刀の技を固山宗次・泰龍斎宗寛・舞鶴友英に習い、幕末の武家目利き四天王の一人に数えられた人物である。江戸にあって備前丁子を復興し、多くの遺例と確かな技倆を伝えた本系は、新々刀備前伝の一典型として位置づけられる。 詳しく見る →
1853年のペリー来航は徳川の泰平をほどき、二世紀ぶりに実用刀の大量需要を生んだ。四谷正宗と呼ばれた清麿はその前夜に世を去り、宗次や行秀が最後の好況を担った。
銘が正しい、または無銘でも年代・国・系統を確実に指摘できる、保存に値する真正の作と鑑定されたものです。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトReturns/exchanges limited to defects caused by shipping (except willful misconduct or gross negligence by the company); customers must contact within 72 hours of receiving the product.
日本刀 剣 銘 宗次(日本美術刀剣保存協会 保存刀剣鑑定書付) 【解説】 概要 本作は、日本美術刀剣保存協会(日美工)により「保存刀剣」に鑑定された、新々刀期の「宗次」銘の剣です。新々刀とは、明和頃(1760年代)から明治初年にかけて打たれた刀剣を指します。この時代には「宗次」を名乗る刀工が複数存在しており、本作については特定の宗次まで個体特定はなされておりませんが、当時の確かな作域を示しています。 剣(つるぎ)とは 剣は両刃の造り込みであり、古来より仏教と深い関わりがあります。本作の注文主もまた、篤い仏教信仰を持っていたことが推察されます。剣は不動明王が右手に持つ「倶利伽羅剣」を象徴しており、不動明王は大日如来の化身とも言われます。この剣は、人間の根源的な煩悩である「三毒(貪・瞋・癡)」を断ち切るものと信じられてきました。その象徴性から、本作も「御守刀」として制作された可能性が高いと考えられます。 本作には、日本美術刀剣保存協会が発行する「保存刀剣鑑定書」が付属します。これは、美術的価値が高く、保存状態が良好な真作の日本刀であることを証明するものです。 【刀身】 長さ(刃長):19.1 cm 反り:0 cm 刃文:焼入れによって刃先に現れる結晶構造 地鉄(肌):鍛錬の過程で現れる鋼の表面模様 切先:刀身の先端部分 茎(なかご):柄に収まる中心部分。日本刀の茎には、赤錆を防ぐために意図的に残された「黒錆」が付着しています。この錆色や経年変化は、専門家が制作年代を推定する際の重要な指標となります。 【外装(拵)】 拵は、鞘、柄、小柄などの諸工作で構成される日本刀の外装です。 縁頭:柄の両端(上部と底部)を保護し装飾する一対の金具。 柄・目貫:柄は刀を握る部位であり、目貫はその装飾です。 本作の目貫は銅製と思われ、時代を経た独特の風合いを湛えています。長年の使用による摩擦や経年変化で細部は摩耗していますが、複数の植物を組み合わせた意匠と見受けられます。その一つは「石榴(ざくろ)」ではないかと推察されます。石榴は約2000年前にペルシャからシルクロードを経てアジアへ、日本へは平安時代に伝わったとされています。当時は観賞用や薬用として重宝されました。 石榴は子孫繁栄を象徴する吉祥果であり、仏教では「吉祥果」と呼ばれます。鬼子母神が手に持つ果実としても知られ、子宝や一族の繁栄を願う仏教思想が反映されています。千人の子を持ったとされる鬼子母神の伝承とともに、信仰の対象として尊ばれてきました。






















新々刀 · 武蔵
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固山宗次は享和三年奥州白河に生まれ、俗名を宗兵衛(惣兵衛)といい、一専斎・精良斎と号した。兄に宗平・宗俊がいる。師は加藤綱英と伝えられるが、その作風から勘案すれば、むしろ加藤綱俊の影響力が大きいものと思われる。初めは白河松平家の抱え工であったが、藩が勢州桑名へ移封の後は、江戸に住して桑名藩工として作刀し、その居住地は麻布永坂であった。弘化二年に備前介を受領している。作刀期間は文政の後半から明治初年の頃までに亘り、その遺例は非常に多い。十九世紀中頃、新々刀の世にあって備前伝を一貫して標榜し、藩の庇護のもと奥州出身の一工が江戸において備前復古の作風を遂げた点に、本系の出発がある。門人の泰龍斎宗寛は文政初年に大野平蔵の子として奥州白河城下に生まれ、宗次を鍛刀の師とした。後に生まれ故郷の阿武隈川を姓に用いて阿武隈川宗寛と銘し、嘉永初年頃から下総国古河藩の抱え工となり、安政四年八月頃から銘を楷書体から隷書体へ改め、明治十六年一月に歿している。 作風は一貫して備前伝で、よくつんだ綺麗な鍛えに匂勝ちの丁子乱れを焼いて成功している。地鉄は小板目肌がよくつみ、ときに板目が総体に流れ、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに頻りに入り、淡く映り立つものがある。刃文は丁子・互の目丁子を基調に、小丁子・尖り刃・角ばる刃・小互の目など多種の刃を交え、足長くよく入り、匂勝ちに小沸つき、細かに砂流しや金筋がかかり、匂口が明るく冴える。見分けの要は、後期作に見る丁子の肩を並べて整然と焼いた型押し風の刃取りと、前期の天保年間に多い焼に高低のある変化に富んだ華やかな乱れとの差にあり、後者には沸の強くつくもの、肌目の立つ強い鍛えがまま見られる。帽子は乱れ込んで小丸、あるいは先がくびれて地蔵風に丸く返るものがあり、同工独特の見どころとされる。截断銘を伴う作が多く、千住での試し斬りに係り、伊賀乗重・山田浅右衛門・後藤新太郎・後藤利義らの名が銘に見える。門系には宗寛のほか、截断銘に名の挙がる舞鶴友英、また「宗」字を用い茎の鑢目を切りとする点から弟子と推される金剛斎宗弘がいる。 鑑定の要は、新々刀期の身幅広く重ね厚く大鋒に結んだ豪壮な姿に、明るく冴えた備前伝の丁子乱れを焼く点にあり、前期は変化に富み、後期は小模様の刃が連れて型押し風となる作域の推移を押さえることにある。代表作には、楠正成所持と伝える国宝小龍景光を生ぶの状態に再現して写し、門弟宗寛が倶利伽羅と長梵字を彫った弘化四年の一口があり、宗次が末備前・応永備前に倣う備前物を多く遺したことを示す。また相州荏柄天満宮の社宝たる正宗庖丁を写し、金工東龍斎清寿が本歌同様の彫を加えた天保十一年の奉納脇指は、江戸の両巨匠の合作として稀有であり、宗弘の同手の写しも存する。截断銘に見える伊賀乗重は尾張藩付家老成瀬家の臣で、様斬の技を山田浅右衛門に、鍛刀の技を固山宗次・泰龍斎宗寛・舞鶴友英に習い、幕末の武家目利き四天王の一人に数えられた人物である。江戸にあって備前丁子を復興し、多くの遺例と確かな技倆を伝えた本系は、新々刀備前伝の一典型として位置づけられる。 詳しく見る →
1853年のペリー来航は徳川の泰平をほどき、二世紀ぶりに実用刀の大量需要を生んだ。四谷正宗と呼ばれた清麿はその前夜に世を去り、宗次や行秀が最後の好況を担った。
銘が正しい、または無銘でも年代・国・系統を確実に指摘できる、保存に値する真正の作と鑑定されたものです。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトReturns/exchanges limited to defects caused by shipping (except willful misconduct or gross negligence by the company); customers must contact within 72 hours of receiving the product.