吉弘の在銘の短刀には康永二年(一三四三)の年紀を切ったものが一口遺り、いま一口は「和州添上郡千手院義弘 文和二年八月日」と銘する。これら僅かな年紀作から、この工は南北朝初期の文和頃に位置づけられ、大和の千手院派の手と見られる。稀な在銘作では吉広あるいは吉弘と銘を切り、無銘の作は義弘の字で極められ、銘鑑はこれらを同人と伝える。千手院派は、奈良の若草山西麓に千手観音を祀る千手堂に因み、この地に在住した刀工群をいう。説明書はこれを大和五派中最も発祥が古いとし、古伝書は平安後期の行信・重弘を伝えるが、両者の確実な遺例は未見で、以後も一派の有銘作は少なく、それゆえ吉弘の年紀作は資料として格別の重みを持つ。
吉弘を大和の中で際立たせるのは、その作域の広さである。南北朝期の大和物中、本会はこの工を、「南北朝期の大和物中、最も地刃に変化を見せ、働きが豊富であり、更に特に沸の強いものである」と評し、地刃の変化が最も大きく、働きが最も豊かで、沸が殊に強い手とする。同じ大和の基盤の上に、相異なる二様の作風を見せる。一様は華やかな大乱れで、強い沸を伴い、刃中に金筋がかかり、砂流し頻りに入り、帽子は乱れ込んで掃きかける。説明書はこれらを相州物を想わせる出来口と読み、義弘の極めはこうした作風のものにあてられる。
両様の底には一貫した地鉄があり、これがこの工の最も確かな見どころである。柾がかる流れた板目を鍛え、殊に刃寄りに流れ肌が立ち、地沸厚くつき地景頻りに入り、最も精緻なものでは地沸が微塵に厚く敷く。刃文は二様に分かれる。穏やかな手では浅くのたれた直刃調で、刃縁にほつれ・二重刃・打のけ・喰違刃を交え、小足を伴い、小沸に金筋・砂流しがかかり、匂口は明るい。華やかな手では匂深く沸厚く、働きがいっそう豊かで焼幅も広い。帽子はそれぞれの作風に応じ、奔放な作では乱れ込んで掃きかけ、穏やかな作では直ぐに小丸ごころとなるか、直ぐに焼詰めとなり、掃きかける先は両様に共通する。
この工をめぐる研究は、この二分と在銘作の稀少さに帰する。説明書は「古来、千手院派の中で相州伝が色濃く混在しているものに義弘の極めをあてる傾向がある」と記し、千手院派の極めの中で相州伝が色濃く混在するものに古くから義弘の極めをあててきたとし、華やかな大乱れに強い沸・掃きかけ帽子を示す文和の年紀短刀を、無銘作を計る拠所として挙げる。だが穏やかな手もまた同工のものである。大磨上無銘の刀で、ゆったりとした穏やかな焼刃に、浅くのたれた直刃、匂深く地刃ともに沸厚くつくものは、同工の一作風として認められる。在銘作は諸形に及び、現存唯一であろう在銘の短刀、細直刃に小沸つき金筋・砂流し豊かな在銘の剣、古記録に伝わる年紀の短刀がある。銘鑑にはまた、暦応四年(一三四一)紀の義弘作が載り、その茎は光徳押形に収められるが、実物は近代に未見である。
同時代の大和の諸工に対し、吉弘を分かつのは単一の特徴というより作域の振幅である。手掻・当麻・尻懸・保昌といった大和の他派が、より狭い直刃の規律と強い柾目に拠るのに対し、吉弘は同派の柾がかる流れた地と、ほつれ・二重刃を保ちつつ、刃を乱れに膨らませ、沸と金筋を、説明書がこの時代の大和の手の中で最も変化に富むと評するほどに奔放に走らせる。その広さが見どころであると同時に極めを難しくもし、相州風の沸の強い華やかな作が、真の作者が定かでないときに義弘の名で通ることもある。それゆえ、作風を実在の手と年紀に繋ぎとめる在銘・年紀の作は、名声のためでなく資料として尊ばれ、在銘の剣からは説明書のいう古香と気品が溢れる。
この工の作は重要刀剣の格で五口を数え、在銘二口・無銘三口で、国宝・重要文化財・特別重要はなく、確かな大名伝来も現在の記録には付かない。その作は大きな公的収蔵ではなく私蔵や地方の所持者の許に静かに伝えられ、名物に従うような名高い伝来を負う一口はない。蒐集家にとっては、稀に、忍耐をもって出会う工である。奔放な相州がかりの乱れであれ、穏やかな大和の直刃であれ、千手院吉弘の作が世に現れるのは時折のことであり、短刀・剣を通じて僅かしか存しない在銘の一口は、南北朝の大和を学ぶ者が目にし得る最も稀なものの一つである。多くの大和極めが無名に退くなかで、吉弘の年紀ある銘は彼に一つの顔を与え、その銘を負う作は、変化に富む遺作の全体を読み解く定点として珍重される。