勝村徳勝、通称彦六は文化六年(一八〇九)水戸に生まれた水戸藩の藩工で、明治五年(一八七二)二月二十九日に六十四歳で歿した。説明書はその修業を定まった順に記す。本工ははじめ水戸藩工関内徳宗に鍛刀を学び、嘉永五年(一八五二)藩命により弟子の初代正勝を伴って江戸に上り、細川正義および運寿是一とも称する石堂の尾崎助隆の門に学んだ。文久年間に江戸小石川の水戸藩邸に移り、数多くの作刀を遺した。本工は新々刀期の水戸(水府)一派に属し、その名を一派の中に定めるのは江戸石堂の修業ではなく、その後に落ち着いた手、すなわち以後の作刀の生涯を通じて終始した大和伝である。
説明書はその転回を平明に引く。初期には師関内に従って板目を鍛え互の目を焼いたが、やがて、説明書のいうごとく「中期以降は大和伝に終始し」、「柾目鍛えに砂流しかかる直刃を焼いた」。指定作の中にこの初期の関内の面と読まれる一口はなく、板目と互の目のその手は現存の作ではなく出立の点として説明書に残り、記録される刀はいずれも円熟期の柾目と直刃の手を示す。この手こそ、まず名を挙げるべきものである。地鉄は処々やや肌立ちごころとなりつつよくつんだ柾目肌で、地沸微塵につき、時に地景風の変りが地に入る。その上の刃文は中直刃を基調に浅くのたれ、処々小互の目連れを交え、刃縁ほつれて砂流し頻りにかかり、金筋入り、匂口明るい。
柾目とほつれる直刃こそ本工の鑑定の核心で、これらはいずれの刀にも一貫して保たれ、決して江戸の師から持ち帰り得た清い直刃ではない。柾目は粗くなく締まって立ち、微塵の地沸を散らし、最も幅広の作では地が流れ肌を帯びて一層柾がかる。これに載る直刃は静かならず働く。小足よく入り、沸強くつき、最も幅広の作では物打辺に飛焼を交える。帽子は大和の見立てを完成させ、いずれの作も直ぐに小丸に返り、先はさかんに掃きかける。第一の指定刀について説明書は「この刀は徳勝の大和伝であり」と記し、その柾目、ほつれる直刃、物打辺で深くなる焼巾に古作を手本とする心配りを見て、「地刃ともによく沸づいて覇気がある」と評する。
この一切を載せる姿そのものが見どころで、説明書が水戸刀特有の幅広・長寸で重ね厚く反り浅い造込みと呼ぶ、鎬造・庵棟の武張った体である。寸法は長寸に及び、中鋒の延びる作から九〇糎に及んで大鋒に結ぶ一口まであり、重ね厚い。この一つの大和伝の手の中に二つの作域が分かれて立つ。二口は本工自ら「勝利」と号して銘に切り、説明書はこの自ら号した作を殊に心に適った作と読む。第三十一回の一口は本工の作に珍しい彫物を負い、佩表に梵字を二つ重ね、佩裏に三鈷剣を浮彫にしたもので、説明書はこれを本工には珍しく、刀に調和して気が利いていると読む。同じ刀を、匂深く金筋・砂流しの目立つものとして、説明書は「初代徳勝快心の一口である」とする。
水戸一派の中で本工を分かつものは、説明書が本工に見るその大和気質という繰り返しの語に収まる。説明書はその指定作について「大和気質が窺われる」と記し、その仕上がりを大和伝の古作尻懸あたりを想わせるものと読む。本工自身の地刃の特色が、比較に拠らずその区別をなす。締まった柾目、ほつれて沸づく直刃、さかんに掃きかける小丸の帽子が、学んだ清い石堂の直刃から本工の手を分かち、その大和の刃文を率直な水戸の体、すなわち「水戸刀特有の幅広・長寸」の姿に載せる。藩命で江戸へ随行した弟子の初代正勝はその傍らに作り、第四十八回の刀について説明書は銘振りより推して、長銘が「正勝の代銘になるものと推せられる」、すなわち師に代わって正勝の切った代銘と見立てる。この見立ては作風の差ではなく銘振りに拠るもので、刀そのものは本工常の大和伝である。
徳勝の認められた作は、昭和五十年指定の第二十三回から令和二年指定の第六十六回にかけての重要刀剣五口に残り、いずれも幅広・長寸で重ね厚い水戸の姿の刀で、「水府住勝村徳勝作之」の形やその異形で長銘を切り、うち二口は本工自ら「勝利」と号する。国宝・重要文化財も特別重要刀剣も記録になく、収集家が現実に出会いうる範囲はこの一群の重要刀剣と、その下に位する在銘の作である。記録された諸作は大名家や寺社の伝来を伴わず、その品位を支えるのは名高い伝来ではなく、説明書が一口ごとに称える地刃の健全、優品の匂深く明るい匂口、そして重要の域に達する水戸大和伝の稀少である。柾目締まり、ほつれる直刃を地刃ともに健全に保つ在銘の徳勝は、新々刀の水戸の手を一口に収める確かな手立ての一つであり、古刀大和の大名工よりは出会いやすくとも時折しか見られず、現れたときには偶然ではなく意を決しての入手となる一口である。