水戸鍛冶は、常陸国水戸を本拠とした新々刀期の一群であり、ここに収める説示は市毛徳鄰と勝村徳勝の二工を主に扱っている。水戸藩は徳川御三家の一として尊王の学風を育み、幕末に至るまで気骨ある気風を保った地であって、その藩工として両者が現れている。市毛徳鄰は安永六年の生まれ、俗名を源左衛門といい、はじめ水戸藩工の久米長徳(長矩)に学び、のち大坂に出て尾崎助隆の門に入った。文化六年三十三歳の時に藩の抱え鍛冶となり、天保元年に近江介を受領、天保六年に歿している。銘も文化頃の「水戸住市毛徳鄰」から文政頃の「水府住市毛徳鄰」へと移り、活動の時期を映している。勝村徳勝は文化六年に水戸に生まれ、通称を彦六といい、はじめ水戸藩工の関内徳宗に鍛刀を学び、嘉永五年に藩命をもって弟子の初代正勝を伴い江戸へ上って細川正義・石堂運寿是一の門に学んだと伝え、文久年間に江戸小石川の水戸藩邸に移って多くの作刀を遺し、明治五年に六十四歳で歿したという。志沢の鉄山に砂鉄を採り自ら鍛えた鉄をもって刀を製した由来を銘に刻む作も伝わり、当時の藩を挙げた製鉄への志を窺わせる。なお拵の一腰は水戸徳川家抱え工玉川美久の金具に第十代藩主徳川慶篤(順公)の作刀を納めたもので、別系の手になる。
両工は地を同じくしながら作風を異にする。市毛徳鄰は小板目肌がよくつんで地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに入って鉄が冴える鍛えを基とし、刃文には師助隆の風を継いだ濤瀾風の大互の目乱れを最も得意として足長く入れ、匂深く沸厚くつき、匂口が明るく冴える。これに加えて真改風の直刃仕立ての作があり、説示はこの作域を比較的珍しいものとしつつ、沸の粒が均一でむらなく整う点を称している。帽子は直ぐに小丸へ返るものが多い。一方の勝村徳勝は、重ねが厚く長大で武張った豪壮な造込みを示し、柾目鍛えに地沸を微塵につけ、中直刃調に浅くのたれて小互の目を交え、刃縁がほつれ、砂流し頻りにかかり、金筋が入り、帽子は直ぐに小丸へ返ってさかんに掃きかける。古作尻懸を想わせる大和気質が窺われる点が、その見分けの要となる。
鑑定にあたっては、まず徳鄰の濤瀾乱れと直刃の二様、徳勝の柾目に直刃調・掃きかける帽子という地の作りを軸に据えるとよい。徳鄰は文化頃の「水戸住」、文政頃の「水府住」と銘字が移ることが制作年代の手掛りとなる。徳勝は門弟正勝の代銘になる作も認められ、自ら「勝利」と号した快心の刀があって、安政から慶応に至る年紀を伴う作が遺る。徳鄰には脇指・短刀の優品が、徳勝には水戸刀特有の幅広・長寸の豪壮な刀が伝来し、いずれも幕末水戸の作刀を語るうえで欠かせない位置を占めている。