大川貞幹は、文政十一年(1828年)に水戸で生まれた。初代泰山元孚の門人である元貞の子で、父について彫金を学んだと伝えられる。後に水戸藩の抱え工となり、父の歿後には江戸へ出府して向島に住んだ。筑山軒、紫峰、幹寿、芳園等の号を用い、橘姓や源姓を冠称し、後年は幹寿とも名乗り、迂拙・迂叟・老拙と銘に冠した。年紀作は慶応から明治にかけて多く、墨田川や東叡山等の地名を添えたものがある。実子に貞寿がおり、後を継いだ。作品より明治三十年頃までの生存が確認できる。
貞幹は「的確無比の彫技には定評があり、あらゆる彫法を見事にこなしている」と評される。魚子地、石目地、荒らし地など、多様な地板を用い、高彫、鋤出高彫、容彫など、高度な彫技を駆使した。金、銀、赤銅、素銅などを用いた色絵象嵌も得意とし、その表現は写実的で、人物、動物、草花など、幅広い題材を手がけた。特に龍の意匠においては、剣に巻き付いて鋒から呑み込まんとする龍を「動勢に溢れ迫力に満ちている」と評されるように、その躍動感が見る者を魅了する。また、「鱗の一枚一枚や爪の先に至るまで的確無比といえる見事な彫技が発揮された優品」と評されるように、細部に至るまで緻密な表現を追求している。
貞幹の作風は、水戸金工の伝統を受け継ぎながらも、江戸における作風も取り入れ、独自の境地を拓いたものとして評価されている。その作品は、「物語性に満ちた纏りのある作品」と評されるように、単なる技巧に留まらず、豊かな表現力と構成力によって、観る者を物語の世界へと誘う。大小拵の鐔においては、秋田藩工である正阿弥傳兵衛の作を手本とするなど、他の刀工からの影響も見られるが、それを自身の作風に取り込み、新たな価値を創造している。