埋忠明寿は通称を彦次郎といい、山城国西陣に住した。自ら三条宗近二十五世孫と名乗り、埋忠家は代々金工の家柄として足利将軍家に仕えた。初め宗吉と称したと伝え、「埋忠宗吉」銘の作が現存する。また「城州埋忠作」銘の彫銘作が天正十六年から文禄年間にかけて知られ、明寿の初期作か父明欽の作かは論議のわかれるところである。元和四年紀の脇指に「六十一才」、寛永八年紀の剣に「七十四才」と行年銘があり、永禄元年の生まれと逆算される。寛永八年、七十四歳で歿したと伝える。新刀の祖と称せられ、肥前忠吉や肥後守輝広の師であり、金工としての位置はさらに高く、刀身彫刻は第一人者と称すべきである。
明寿の現存する作刀は極めて少なく、刀は慶長三年紀のもの一口に過ぎず、鎬造と片切刃造の脇指が各々一口ずつ、剣一口以外は全て短刀である。しかもその多くが片切刃造で、「寸法の割には身幅が一段と広く、庖丁風の形状を呈している」と繰り返し評される。鍛えは板目に柾がかった肌を交え、地沸微塵によくつき、地景入る。刃文は「小のたれを主調に互の目を交え、小沸がつき、匂口がやや締まりごころ」となるものが多い。志津や貞宗を理想とした如き作域であり、仔細に見ると刃中に金筋・砂流し等の働きが看取される。一方、細直刃を焼いた晩年の鎬造脇指も確認され、常に見るのたれ刃とは異なる作域を示す。彫物は簡素なものを含めて必ず表裏に施され、玉追い昇降竜は最も得意としたところである。竜の下顎が角ばって大きく張り、上顎に比べて大きく「いわゆる受け口」となるところに彼の特色が顕著に表示されている。
埋忠彫の真髄と評される彫物は、前時代には見られない自由さと斬新味を備え、装飾的色彩の強い新刀の彫物に大きな影響力を及ぼしている。説示には「全てに明寿の本領が遺憾なく発揮された一口」「地刃の出来が傑出」「精緻な地鉄に微細な刃沸が厚くつくなど明寿の洗練味のある作風をよく表し」といった評語が繰り返し見られ、刀工と金工の双方において卓越した技量を示した稀有の工人であったことが窺われる。年紀作には慶長十三年紀のものが不思議と多く見られ、同年の複数月にわたる年紀が確認されることも、その制作活動を知る上で興味深い資料となっている。