三池の光世は筑後国の大名跡の頭領であり、説明はその地位を一文に定める。即ち祖典太光世は平安後期の名工であり、代表作は前田家伝来の名物大典太、天下五剣の一に数えられる。しかし説明は同時に、その祖自身の手の遺ることの乏しさをも明言する。有銘の確かなものは「現存する有銘作は名物大典太一口よりなく」、後の光世銘は名跡を継いだ後代の作であるという。即ち名跡そのものが系譜である。光世は一人ではなく相伝で、その銘は鎌倉時代から室町時代へと継がれ、現存の指定作はいずれも祖ではなく後代の作にして、説明はこれを一派の作風を具えたものと読む。かくして光世は稀なる二重の光のうちに立つ。大典太という唯一無二の名作によって名高い工であり、同時に三世紀に亘る相伝の作を貫いて窺われる、明確な九州の手の頭領である。
その手は、説明が静かな作域に保つ流れて軟らかな作風である。杢を交えて流れ、やや肌立つ板目に地沸つき、説明は地鉄そのものに最も長く筆を費やして、「ねっとりとして如何にも軟らかそうに見える肌合」と称し、白けごころとなり、幅広の作には白け映りが立つとする。刃文は直刃を基調とし、平造には細直刃、刀には小互の目を交えた中直刃調で、小沸よくつき、砂流し・葉を交え、処々に二重刃・ほつれ・喰違い刃を交える。説明は他で刃の明るい場合にも匂口の落ち着くことを記し、これを「匂口が沈みごころとなる刃文」と述べる。この控えめな地刃に対して、説明が一派の個性として唯一名指すのが彫物であり、名跡の最も確かな標としてこれに立ち返る。
体配は一派の知られる豪壮な古図、即ち鎬造・庵棟、身幅広く鎬幅広い太刀で、重ね頃合に腰反り深くつき、中鋒つまる。現存の長寸の例は大磨上げの刀となり、本来の太刀銘を失って、極めの銘を短くなった茎に負う。鍛えは板目がさかんに流れ、説明は「板目がさかんに流れて地沸つき」と記したのち、軟らかく白む地に落ち着く鋼を述べる。帽子は直ぐに小丸、あるいは一口の刀で焼詰めとなり、僅かに掃きかける。表裏に幅広の棒樋を掻き流し、脇指には添樋を伴う。そしてここにこそ説明は一派の個性を見て、「幅広で比較的浅い棒樋を好んで掻くところに一派の個性が窺われる」と書く。
名跡が三世紀に亘るため、説明は作を年紀ではなく作風と極めの銘によって順序立てる。祖の世は大典太そのものを措いては切り分け得ず、現存の指定刀は時代が平安後期までは上らぬと説明は注意深く言うが、地刃と彫物に一派の特色を示すがゆえに、その上の極めは妥当と鑑せられ、作は概ね鎌倉末葉に置かれる。その極めもまた記録の一部である。大磨上げの一口は金象嵌の光世を負い、説明はこれを「本阿弥光忠などの極めと鑑せられる」とし、別の一口は大振りの金粉銘「三池光世」と、寛文元年本阿弥光温代金子七枚の朱書を負って、説明は「金粉銘の極めは妥当」と認める。在銘の脇指、幅広の平造に太鏨で大振りに切られた二字銘の作を、説明は「健全で地刃の出来がよい」と称する。祖も後代も含めたこの作全体を、説明は大典太に発し「九州古作に共通するもの」と位置づける。
三池の手を、その静かな直刃が想わせかねない諸派から分かつのは、まさにこの地と樋である。小沸の直刃は数派に通うものであり、地鉄のみでは山城や来の作が冴えた明るい鋼を保つところを、三池の地はかえって白み軟らんで、説明の名指すねっとりとした肌合を呈し、軟らかく白い地と幅広で浅い棒樋とが相俟って作を筑後へ引き戻す。説明は一派を九州古作の大きな一族の一とし、名のある師から下るのではなく典太光世に始まるとする。その継承は、大典太一口のみが知られる祖自身の作にではなく、名跡とその特色が絶えず相伝された点に遺る。唯一の至高の一作を通して記憶され、後の各作にあっては地の静けさと樋の幅広さによって見分けられる一派である。
蒐集の上の評価は、祖の希少と名跡の散在から導かれる。手の届く国宝はなく、すべてに冠たる一口を繞って重い指定の重みがある。即ち大典太は祖の代表作にして「前田家伝来の「名物大典太」が代表作として知られる」、譲られることのない伝来の品である。重要文化財二口が市場にではなく公と社寺の蔵に名を伝え、その一が徳川家康のソハヤノツルキ、久能山東照宮に蔵される作であり、いま一が本明寺に伝わる短刀である。広く記録に遺る作のうち、在銘の刀一口は静嘉堂文庫美術館に、薙刀一口は東京国立博物館に蔵され、大典太と同じく、その作の多くは社寺と旧蔵の手に収まる。これらの背後に、本阿弥の極めの伴う特別重要・重要の刀三口が立つ。記録に遺るのは僅かで、私蔵の光世は蒐集家の出会い得る稀なものの一であり、市場に現れるのは稀にして、現れればまさに一里塚である。光世は唯一無二の至宝を通して世に知られた筑後の名匠であり、名跡の運ばれたいずこにあっても、軟らかく白む地と幅広で浅い樋によって見分けられる工である。