左行秀は、伊藤又兵衛盛重の嫡子として文化十年、筑前国上座郡朝倉星丸の里に生まれた工で、自ら筑前左文字三十九代目を以て任じ、作刀にもその旨を刻銘している。天保初年に出府して細川正義門人清水久義に鍛刀の技を学び、弘化三年、三十四歳の時に土佐藩工関田真平勝広の勧めにより土佐へ下った。安政二年十月に土佐藩工となり、万延元年の終りから文久二年の初め頃には再び江戸に上って深川砂村の土佐藩邸に居所を構えて作刀したが、慶応三年五月、板垣退助との不和がもとで同年夏に土佐へ帰り、以後は「東虎」と銘している。作刀は明治三年で終り、明治二十年に七十五歳で歿するまで嫡子幾馬と横浜で暮らした。筑前の出自を背景に左派を称し、十九世紀中頃の江戸と土佐の両地において、説示が地刃の随所に指摘するとおり相州伝復興の作域を展開した工である。
作風は、身幅が広く重ねが厚く、手持ちのずっしりと重い、いかにも新々刀然とした豪壮な造込みを基調とし、大鋒に結ぶ姿に幕末の時代色を顕著に示す。鍛えは小板目肌がよくつみ、杢・流れ肌を交え、処々柾がかる肌合を交える例もあって、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かによく入り、かねが冴える。刃文は彼の最も得意とする中直刃ないし広直刃を基調に浅くのたれごころを帯び、互の目・小互の目が交じり、匂口が一段と深く、沸が厚く強くつき、刃縁に頻りに沸ほつれを生じ、金筋・砂流しがかかって匂口の明るく冴える点に特色がある。互の目主調に乱れた覇気の横溢する出来や、二重・三重刃風を呈して相州上工を狙った烈しい平造脇指など、常の静穏な直刃調とは趣を異にする作も説示に挙げられる。見分けの上では、豪壮な体配と、匂深く沸の厚い明るく冴えた地刃に金筋・砂流しのよく働く点が一貫した手掛りとなる。彫物の名手として正義門人礒貝義達が随伴し、刀身彫を施した旨が茎棟に切付けられた作も伝わる。
伝承の面では、嘉永・安政年間に長寸・重ね厚・反り浅の堂々たる体配がまま看取され、明治三年前後には短めの姿に時代色をあらわすなど、年紀による作域の推移が説示によって跡づけられる。代表作としては、覇気の横溢する豪壮な刀のほか、行秀の完全な大小揃、相州上工を想定した平身の意欲作などが資料性の高い遺例として記される。銘文に認められる鍛刀地および材料鉄の添銘は同工研究上の貴重な情報をなし、岩手県釜石周辺に産する南部名産の餅鉄を用いた旨を明記する作が遺り、運寿是一・泰龍斎宗寛・岩井正俊・月山貞一らと並んでこの材を用いた工に数えられる。注文者銘や駐鎚地銘を伴う作も多く、注文に応じた制作の実態を伝える。鑑定にあたっては、新々刀の豪壮な姿と、得意とする直刃ないし浅いのたれ基調に互の目を交えて匂深く沸厚く明るく冴える地刃を併せ見ることが要点となり、説示はこれらの出来口を相州伝復興の典型としてくり返し指摘している。