加納派は、幕末から明治にかけて活躍した金工・加納夏雄を中心とする一派である。夏雄は文政十一年(一八二八)京都に生まれ、幼くして刀剣商加納治助の養子となり、十二歳で金工奥村庄八のもとに入門し勉強した。十四歳の時に大月派の池田孝寿について金工技を学び、初め寿朗と銘し、後に夏雄と改めた。期を同じくして漢文の素読を谷森種松に、絵画を円山四条派の巨匠中島来章に習った。彼が町彫最後の名人と称されたのは、この京都時代に培われた素養によるものが大きい。二十七歳の時に江戸に出て研鑽を重ね、大成した。安政三年紀の三所物に「左京人夏雄」と切った銘文には青雲の志に燃える夏雄の誇りと覚悟のほどが顕示されており、加藤氏の需に応じた鐔や、藩政時代に秋田藩主佐竹家に伝来した風竹に流水図鐔など、大名家をはじめ広く需要に応えたことが遺品から知られる。
その作風は、円山四条派に学んだ精緻な写生を根幹とし、地金と彫技の多彩さにおいて他に類を見ない。地金は鉄磨地・赤銅魚子地・赤銅荒し地のほか、鉄と四分一を合わせた昼夜仕立、さらに夏雄の特徴ともいえる虎斑の四分一磨地に及ぶ。彫技は謹厳な鋤出高彫を主体に、絵画的な片切彫・毛彫を駆使し、平象嵌・据文象嵌・布目象嵌・消込象嵌を的確に施す。色絵には金・銀・赤銅・素銅・四分一・真鍮のほか貝をも交え、細部にいたるまで入念な彩色を尽くす一方、色絵を金一色に限定して僅かに施すなど、抑制の利いた表現も見せる。余白の美を重視した構図、空間に漲る大気の層を重要視する悠々たる構成、水辺の清涼な空気感を巧みに捉えてさりげなく表現するところは夏雄芸術の独壇場であり、種々の金属と手法を駆使しながら品良くサラリと表現できるのがその真骨頂である。絵風鐔の祖と称された金家を手本と明記した作があり、安親の影響も指摘される。画題は魚尽し・柳樹白鷺・月に蘆雁・牡丹・四君子・竹林七賢人・末広がり・水月・月下狸腹鼓など、花鳥風月から狂言・故事にまで及び、いずれも精緻な写生に基づく謹厳迫真の鏨捌きと豊かな抒情味をもって完成されている。
明治に入ると、夏雄は新貨幣鋳造の原形製作を政府より託されてこれにあたり、明治二年に大阪造幣局に出仕、同四年宮内省雇員となり、同十四年には内国勧業博覧会審査員を務めた。明治二十三年には東京美術学校の教授となり、同年初の帝室技芸員に選ばれた。明治三十一年、七十一歳で歿している。「我国刀装金工史の棹尾を飾った名工」と評される通り、その遺品は審査の説明においても最高の讃辞をもって語られる。竹林七賢人図鐔は気韻生動が凛々と張った名鐔と称され、水月図小柄はこの空気感を表現できるのは夏雄しかいないと言っても過言ではなく、加えることも差し引くこともない構図は夏雄芸術の到達点とされ、明治十七年制作の魚尽図鐔は夏雄工芸の集大成と位置づけられている。幕末の装剣金工の伝統を明治の美術工芸へと橋渡しした加納派の存在は、刀装具史の掉尾を飾るものとして不動の地位を占めている。