大村加卜は生国を駿河とし、駿府郊外の安在に生まれ、本名を大森治部左衛門と称した。本来は外科医であり、医術をもって越後高田藩主松平光長に仕え、同家の改易後は浪人して江戸に上り、その後水戸藩の徳川光圀に随身している。作刀は本業の傍らの業であったが、その著書「刀剣秘宝」によると、正保元年三月より刀を打ち始め、貞享元年までの四十一年の間に百腰を打ったと自ら述べており、活躍は正保から貞享に及ぶ。銘には「越後幕下士大村加卜」と切り、別に大村加卜安秀とした作も残す。門人に坂東太郎が伝えられる。江戸・水戸圏に拠った新刀期の工であり、医を本分とする学者肌の経歴が、その作刀の性格をよく映している。
作風には大きく三手があり、丁子乱れの華やかな備前伝、沸の強い大乱れの相州伝、そして真改風の広直刃が認められる。備前伝のものは石堂風の見事な丁子出来となり、大丁子に互の目を交え、足・葉を頻りに入れ、乱れ映りの立つ作には傑作が見られる。相州伝のものは、広直刃を基調に互の目やのたれを連れごころに交え、足太く入り、ほつれ・湯走り風を見せ、金筋・砂流しがよくかかる。帽子を一枚風に深く焼くのもこの手の特色で、郷義弘を強く意識した出来に至る作もある。見分けの要としては、鍛えが板目に杢や流れ肌を交えてやや肌立ち、地沸・地景が入って肌目のはっきりとした強い地鉄となる点、姿が重ね厚く鎬高く中鋒延びて頑健の感を示す点が挙げられる。
伝承の上で加卜を端的に示すのが、その特異な鍛法と銘振りである。「真十五枚甲伏造」「真十枚甲伏造」など独自の鍛えを用い、その鍛法を裏の添銘に記すことが作刀の殆んどに見られる。また「予非鍛冶(予鍛冶ニ非ズ)」と添える銘もあり、刀工を本業とせぬ自負がうかがえて面目躍如たるところである。安秀と称した正保二年紀の作はその初期の好資料となり、後年には金象嵌「大堰川」を施した優秀作も伝わる。これは直刃を京都の大堰川に見立てたものであろうが、その意は伝えられていない。本業を医に置きながら備前・相州の両伝を能くし、独自の鍛法と添銘に学者肌の刀工の個性を刻んだ点に、新刀期における異色の位置づけが認められる。