友行は南北朝時代の豊後国高田荘に作り、説明書はこれを高田派の祖、すなわち室町を経て新刀期に至るまで九州鍛冶を担った一派の開祖とする。説明書はその位置を同国の転機に置く。豊後は鎌倉初期に僧定秀・行平を出して以来名工が一時跡絶えたが、友行に至って作が再興する。剣書は同銘を世代に分け、文和年紀を初代、貞治以後を二代とするが、刀の証によって説明書は現存の一群を南北朝の一人の手と鑑り、「現存するものは南北朝期と鑑られるものである」と記す。その年紀作は正平二年(一三四七)から正平十三年(一三五八)を経て貞治六年(一三六七)に及び、この数口の在銘作から、多数の極めが読まれる。
その特色ある手は、まず近似する同時代の筑前左文字一類に照らして、次にそこから分かれる点によって語られる。説明書はその点を率直に挙げる。「刃中に角ばる互の目が間遠に連れ、かねに白気が目立つなどの点に特色がある」。刃文は華やかならず直刃調に静かで、細直刃あるいは中直刃の基調に、その間遠の角ばる互の目を交え、小互の目・小のたれ・小乱れを交えて、総体に匂口の沈む中に、足・葉・小沸を伴い、砂流し・金筋がかかり、処々に小さな飛焼・湯走りを交える。静かな刃の中に間遠に置かれた角ばる刃こそ、説明書が本工自身のものとして繰り返し立ち返る見どころである。
地鉄は終始変わらぬところで、より確かな見どころである。板目に時に杢・大板目を交えてやや肌立ちごころとなり、地沸つき地景入り、これに白け映りが目立って立ち、地鉄は白け、時に黒みを帯び、地斑・地斑状の交じる。説明書はこれを決め手とする。左一類に近い大磨上の刀を見て、その近似を認めつつも、「白けの強いところは高田鍛冶とみとめるところ」と結ぶ。その地鉄は左一類の冴えに及ばず、その及ばぬところと地斑こそが高田の徴である。
その記録には二つの面があり、説明書はこれを分かつ。少数の生ぶ茎・在銘の作、うち数口は年紀があり、その名を支える。身幅広く寸延びの平造短刀は樋先が下って南北朝の作風を示し、一口は茎元に梵字を彫り、生ぶ茎の太刀一口は身幅広く切先延びごころとなる。貞治六年(一三六七)紀の短刀について説明書は「出来銘文ともに珍しく資料的な価値は高い」と記し、これに近い正平十三年(一三五八)紀の作のあることを挙げる。記録の大半は大磨上無銘の刀と薙刀直しで、身幅広く反り浅く大鋒、磨上げ前は南北朝の堂々たる太刀姿であり、個性ではなく時代と地刃から本工と極められたものである。帽子は表は直ぐに掃きかけて焼詰め、あるいは乱れ込んで尖りごころに返る。
高田の友行を分かつものは、まさに極めの言うところである。刃の作りにおいて末左の伝統に近く立ちながら、白けて地斑の交じる地鉄、沈む匂口、間遠の角ばる互の目においてこれと分かれる。自身の明るい白け映りと刃中の角ばる刃は、周囲のより素朴な九州物からも本工を分かち、説明書はその特色を一個の孤立した点ではなく「地刃・帽子」に総じてよく示されるとする。本工は高田物の祖と称され、説明書の言葉によれば、この一派は友行をもって「高田物の祖となった」、すなわち以後数百年を貫く工房の伝統の開祖である。
収集の観点では、稀な初期の九州の名であり、藤代の極めは上々作である。在銘・年紀の作は僅かに数口を残すにすぎず、重要美術品の短刀・太刀がその中にあり、これら数口こそ多数の大磨上無銘作の極めを支える資料である。その最上の栄誉は市場ではなく国の宝としての伝来にある。本工と極められた約一八〇糎の無銘の大太刀は国宝として大三島の大山祇神社に伝わり、古く大森家を通じて同社に納められたものであり、在銘の短刀は重要文化財に列する。その記録は他に戦前の重要美術品と十口の重要刀剣に及び、指定を受けた作は合わせて十五口を数え、佐野美術館・熱田神宮や旧家の私蔵に伝わって、数口は松平家の大名伝来をもつ。世に出会い得るのは重要刀剣と無銘の極めであり、身幅広い南北朝の堂々たる長寸の刀で、時折世に現われるにすぎず、その記録の中核たる在銘の高田友行は、収集家がより稀に巡り会うものである。