元和二年(一六一六)二月吉日と紀し、藤原国房と太鏨で四字に切る刀こそ、この工の記録の定点である。説明書はそこから他の作を判じており、同銘で同年紀を有する刀が現存し、その銘振りが他の作と一致することから、これらは初代の作として照らし合わせて鑑することができる。国房は伊予宇和島の人、通称小野小市で、説明書は「国房は小野小市といい豊後高田鎮正の弟子で伊予国宇和島の住人」と明記する。元和元年三月に伊達秀宗に抱えられて宇和島に住し、その一派は後に繁栄して、同名は新刀期から新々刀期まで続いた。初代予州国房は、江戸初期の口火にあって作刀した高田門の刀工であり、その作は重要刀剣に五度認められている。
その作を貫く手は、堀川風を帯びた慶長新刀の手である。身幅広い鎬造で中鋒から大鋒に結ぶ姿に、杢を交えてやや肌立つ板目を鍛え、地沸がよくつき地景が入る。その地に対し、小のたれを基調に互の目を交え、丁子足・葉が刃中に働き、匂深く小沸冴え、匂口を明るく焼く。帽子は直ぐに小丸、先掃きかけとなり、時に突き上げて返る。銘は地鉄に劣らず識別の一部であって、生ぶ茎の目釘孔の下に太鏨で大振りの二字銘「国房」を切り、鑢目は大筋違、ほかに藤原国房の四字銘・住所長銘もある。説明書はこの作風の一口を「国房得意の作風を示して」、出来がよいと評する。
地鉄こそ、その堀川風がまず読まれるところである。肌立ちごころの板目で、杢を交えた立つ肌が地沸を厚く捉え地景を交え、初期の一刀ではやや「ザングリ」と評される。これは備前や山城の詰んだ小板目ではなく、開いて働きのある慶長新刀の鍛えの肌である。その上の刃文は華やかというより抑えたもので、浅い小のたれを基調に互の目を交え、足・葉が入り、沸がよくつき、優品に至れば刃を明るく冴え冴えと焼く。説明書はこれを「典型的な慶長新刀の姿」と呼び、地刃ともに出来がよいとし、最上作にはより強い語を充てる。帽子は静かな見どころで、小丸に掃きかけ、裏やや尖りごころのこともあり、劇しい返りを見せず、下の刃に従って一種の手を主張しない。
指定の五口は、一つの手を異なる姿に示す各面に分かれる。三口は鎬造の刀で、身幅広く反り深く、立つ板目と小のたれ・互の目の刃を直ぐに明るく走らせ、本作風を最もよく示す。一口は平造の脇指で、幅広く寸延びて反り深く、板目肌立ち棟寄りに柾に流れ、刃文は小のたれが処々「箱がかり」、匂口はここでは明るくなく沈みごころとなり、同じ手を平造に作る。第五は剣で、説明書が特に挙げるもの、表は片切刃造、裏は鎬造で、予州宇和嶋住藤原国房と長銘を切る。板目を詰めて鍛え、地沸微塵に厚く細かな地景を交え、刃文は下半に焼出し風の長い直刃を置き、その上に小のたれと大互の目を交え、匂口深く沸よくつき明るく冴える。
説明書が一刀ごとに立ち返るのは、地鉄の借り物の比較ではなく、その系譜の問題である。地刃の鍛え・茎仕立・銘振りはいずれも堀川風を示し、国広門下の国徳・国則が同じ伊予国で作刀したことが記録されることから、説明書は国房が堀川一門と深い関係にあったと想定し、「堀川説も成り立つ」と判ずる。かくして彼は二重に置かれた工である。系譜の上では豊後高田の門に学び、その直刃や互の目乱れは古い書が他伝に似ると評するものでありながら、NBTHKが豊後の手というより堀川国広門下に近いと読む作風で作刀した。その二者の交差の中で彼自身の作を分かつものは、立つ板目とその地景・明るい小沸出来という、その記述に即したものであって、彼が間に立つ諸派について語られる特徴ではない。
国房を巡る鑑賞は、名声の高い名工というより、上手な地方の名手のそれである。参考書は彼を刀工大鑑で三百点とする。これは当代第一級には遠く及ばぬ、収集に値する刀工の評価であり、彼に国宝はなく、重要文化財も特別重要刀剣もない。指定を受けた作は五口で、いずれも重要刀剣の位にあり、五口のいずれにも伝来の記録はなく、この資料の範囲では大名伝来は名に付かず、所持者として記録される博物館も社寺もない。現存する作は、永く手の届かぬものというより、忍耐ある収集家が時に出会い得る類のものであって、伊予宇和島国房の祖の手になる、地刃健全で出来のよい慶長新刀である。説明書は彼の優品を珍品で地刃健全とし、「珍品でもある」と評し、長銘の剣に至ってはさらに進んで、これを「同作中の傑出した出来映え」と名づける。これは新刀の世の口火に堀川風の手を伊予へ携えた、高田門の刀工の高い印である。