越中守藤原高平は加州兼若の改名であり、辻村系加賀鍛冶の中心工である。元和七年十二月紀の刀一口について、説明書は、兼若の高平改名と越中守受領をめぐる古来の問題を解明する「貴重な資料」であると記す。一派は美濃を出自とし、その祖は関の鍛冶で、のちに加賀へ移住して兼若を名乗り、初代は辻村四郎右衛門尉と称した。通説では兼若が元和五年頃に越中守を受領して高平と改め、同名は寛永四年に及ぶという。説明書は異説のあることを記し、これを加州二代兼若の作とする一書もあって、なお今後の研究に俟つべきものとする。
説明書が本工の特色として挙げるのは刃文である。のたれを基調に互の目・尖り刃を交え、のたれの頭が広がるところで箱がかる。説明書はこれを「箱がかった湾れ刃は彼の真骨頂を示している」と評する。匂口深く小沸つき、処々荒めの沸を交え、砂流しがかかる。昭和五十年代の説明書二通は作風を一文にまとめ、湾れを基調に互の目・尖り刃・箱がかった刃を交じえ、「沸がよくついて覇気がある」とする。
地鉄は板目が流れ肌に流れ、地沸つき地景入り、刀一口では鎬地が柾となる。説明書はこれを出自に結びつけ、「作風は出身地である美濃色の濃いもの」が多いとする。前期の刀は肌立って地沸荒くつき、最晩年の作と元和の短刀二口は小板目によくつんで地沸細かにつく。帽子は一様でなく本系らしく、表は小丸に返り裏は掃きかけて尖るものがある。
説明書は作域を二つの時代に分ける。兼若の現存する年紀作は慶長の半ばから寛永の初年までに及ぶ。慶長頃の前期作は身幅広く鋒の延びた慶長新刀姿で、刃文は浅いのたれに互の目や尖り刃を交え、「古作の志津を彷彿とさせる」出来口を示す。元和から寛永へと年代が降り高平銘に移るに従い、身幅は尋常に近づいて中鋒となり、板目は細かくつみ、匂口は深まり、箱乱れが目立つようになる。寛永三年正月紀の脇指は、小板目主体の精妙な鍛えに悠々としたのたれを焼き、円熟した技量を示すと称揚される。また「身幅の広い寸延びの作を得意として」、刀・寸延びの平造脇指のほか短刀を多く打ち、説明書は「高平には短刀が多く刀は少い」と明記する。
銘と彫物の癖も説明書に詳しい。「辻村越中守」「藤原」を二行に切り、下に「高平」と花押を据えるのが常で、年紀に三月三日と切ったものが故あってか数本ある。元和七年紀・元和九年紀の短刀二口もともに三月三日の年紀である。元和九年紀の短刀は表に三体仏、裏に松竹梅と鳥居の濃厚な浮彫を施し、説明書は越前物とも異なるものとして、恐らく自身彫ではなく「同国の彫物師の手になるもの」とみる。他の加州物には高平以外に殆ど彫物を見ないことも付記される。元和九年紀の脇指には櫃に倶利迦羅の透彫があり、説明書はこれを越前の記内彫に最も近いとする。
重要刀剣に指定された作は七口で、すべて在銘、刀と、最も多く見る寸延びの脇指にわたる。このほか元和七年紀・元和九年紀の長銘の短刀二口が、本間による御物台帳に所載される。本工には国宝・重要文化財はなく、刀工大鑑の評価は新刀界の頂点ではなく中位に置く。これが優れた個性ある地方の名工としての正直な位置づけである。重要刀剣の作は指定刀の常として所蔵者の手に留まり、市場に現れるのは時折で、根気を要する。所在の知れる在銘在紀の一口に出会うことは、兼若の継承を解く鍵とされる作者の確かな作として、満足のゆく出会いである。