嘉暦の年紀を持つ太刀二口、一口は嘉暦三年正月、一口は同年十月の銘があり、これが重助について知られるほとんど全てを定める。重助は鎌倉時代末期、長船からほど近い備前国和気庄に在った和気一門の刀工である。説明書は彼を重則と並べて和気の刀工とし、この数少ない現存の在銘作によって両工の時代を測り、「和気の地は古備前刀工の故地であると伝え」るとし、一説に彼らも古備前の流れを汲む工というが詳らかでないと慎重に添える。本工は傍系の備前の手であり、西方ほど近い長船の大工房に対して置かれ、まさにその光のもとで読まれる。
本工の典型は在銘の太刀で、やや細身、小振り、一口は輪反り風、一口は小振りながら腰反りごころがあり、中鋒となる。小板目肌のよくつんだ地に地沸つき、乱れ映りの立った地に、長船本流の重花丁子ではなく抑えた直刃調を焼き、小互の目・小丁子を交え、小足が入り逆足を交える。匂口は締まりごころとなり、小沸・金筋がかかる。この備前の豊かな映りの上に渡した直刃基調の静かな刃こそが本工の手の背骨であり、同じ年代の華やかな長船の刃から和気一門を分かつ見どころである。
地鉄は本工の作を通じて変わらぬところである。乱れ映りが在銘・無銘を問わずほぼ全ての作に立ち、太刀では小板目につまり、磨上の刀では総体にやや肌立ち、杢・流れを交える。委しく記された作では地沸が微塵につき、地景が入り、少しく地斑調の肌合を交える。和気一門が古備前の根から保つ備前の地鉄である。その地に対して帽子は浅くのたれ込んで小丸に返り、時に焼詰めとなり、掃きかけを見せ、大磨上の刀には棒樋を掻き通すものが多い。
この一つの手のうちに、説明書はさらに二つの面を引く。平造の短刀一口は、五字銘が「備州和気住」以下で切れ、裏の嘉暦元年紀から重助と極められ、板目が流れて大肌を交え、互の目乱れに逆がかりと肩落風の互の目を焼く。説明書はこれを「景光を思わせるような肩落互の目風の刃を焼き」出来がよいとし、銘切れながら和気の刀工研究上の好資料とする。記録の大半を占める大磨上無銘の刀は、和気本流の手として本工に極められ、個性ではなく時代・一派と現存在銘の太刀の定める基準から首肯される。
長船の隣人から本工を分かつのは、まさに極めの繰り返し言うところである。重要美術品の説明は、年紀の太刀の一口を見て「同時代の長船景光に比して変化がある」とし、もう一口の出来を景光の常作に優るとも劣らぬものとする。現代の極めも無銘の刀を同じく読み、その乱れ映り・小互の目を交えた直刃調・浅くのたれて小丸に返る帽子を当時の長船物に近いものとし、その近似が極めを支えるとする。本工はかくして長船派の静かな衛星として立ち、丁子主調の本流と分かつ備前直刃の手であるがゆえに、その名は正しく残されている。
収集の観点では、大家ではなく稀な傍系の名であり、記録もそれに正直である。国宝はなく重要文化財もない。その標は在銘の特別重要刀剣一口、重要刀剣九口、戦前の重要美術品二口に拠り、指定を受けた作は併せて十二口である。説明書は在銘の特別重要の太刀を「彼の作品中傑出の出来映え」で保存が特によいものとし、重要の刀の一口を「地刃共に破綻のない重助極めの優品」と評する。その作は来歴の確かな蔵に伝わる。最上の在銘太刀は元禄十四年(一七〇一)将軍徳川綱吉から水野勝長に下賜され、永く下総国結城藩主水野家に伝来した。重要美術品の太刀の一口は三井家が蔵し、もう一口を塚本美術館が蔵する。現存する在銘の作が極めて少く、無銘の極めも多くが永く秘されている以上、重助が世に出ることは稀であり、在銘の一口は備前の収集家が望み得る最も稀な資料の一つ、長船の影で和気の古い一門がいかに鍛えたかを語る証である。