野村包教は、三郎次、または三郎兵衛といい、干英子と号す。近江国彦根の出身で江戸に住したと言われているが、「江戸住」と銘した作は無く、いずれも「江州彦根住」という地名を銘文に添えている。師については、江州彦根中藪住人で藻柄子宗典の弟子であるとする説がある。作風は藻柄子一派と同趣で、同派の有力な分派であるとされ、宗典門第一の上手と評される。生没年は未詳であるが、「享保九甲辰」と年紀のある作品が確認されており、ほぼその活躍期を窺い知ることが出来る。彦根に於いて同時期に活躍した秀典銘・宗典銘といった藻柄子初期の傑作を髣髴とさせる作風を示す。
包教の作風は、鉄地、赤銅魚子地などを用い、高彫、色絵、象嵌色絵などの技法を駆使する。題材は故事や物語に取材したものが多く、源氏物語の「明石」や『小督』の物語を題材とした作例が見られる。大胆な構成力と繊細な色がね象嵌を特徴とし、画面を広く使い物語を演出する。彫口はおおらかでゆったりとしており、観る者を幽玄の世界に誘うと評される。耳には金覆輪を施した作が多い。
包教の作品は、師である宗典の傑作に勝るとも劣らない出来と評され、同工屈指の一作、野村包教の白眉と見られる一枚と評されるなど、高く評価されている。藻柄子一派の作風を継承しつつも、独自の意匠や技法を加え、同派の有力な分派として独自の地位を確立した。鐔の他には縁頭の作を多く見る。