後鳥羽院は通常の意味での刀工ではなく、鎌倉時代初期の後鳥羽上皇その人であり、鍛冶を帝王の営みとした。所載解説は伝えを一貫して記す。上皇は番鍛冶を選定して院の御所に結番を作り、刀を打たせられたと伝え、この間鍛冶に造らせた刀身のうち「上皇自ら焼刃せられたものを菊作または御作と称している」。その記録は古く、御所への名工の召し抱えと自らの焼入れは『銘盡』(観智院本)をはじめ古来の刀剣書に見え、『後鳥羽院番鍛冶考』に所載の作も知られる。
何よりの目印は菊である。菊作と言われる所以は、生ぶ茎の研溜に十六葉や二十四葉の菊花紋の毛彫があるからであり、茎が生ぶに残る作では磨耗した毛彫がなお看取される。一方、作風は院一人のものではない。解説は、その折の相手を務めた鍛冶によって作風が異なり、古一文字の作に類したもの、古青江風のもの、粟田口の作域に近いものなどがあると繰り返し説く。群を貫くのは焼刃の型であり、「概して焼落しが見られ、そこから水影風の立つものが多い」。焼落しの部分は「匂口が弱く一見再刃の如くみえるがそうではない」と明記される。現存する数口には京風と備前風があるという。
穏やかな側を担うのは山内家伝来の太刀で、菊花紋の下に斜めに符牒の如き「一」の字を刻す。細身で腰反り高く、踏張りがつき、先に行って伏しごころがあって小鋒となる。鍛えは板目に杢・流れ肌を交えて総体にやや肌立ち、地沸がつき地景が入り、元の方には斜めに水影状の映りが立つ。刃文は区上を焼落して腰刃風を見せ、その上は直刃調に浅くのたれ、小乱れに小互の目・小丁子ごころを交える。小足が入り、刃に近く飛焼がかかり、よく沸づいて砂流し・金筋がかかる。帽子は直ぐに小丸で、沸が強い。解説はこの作を備前古一文字派の作風に近いとし、特色の焼落しと元の水影風の映りを挙げる。菊花紋の毛彫に「一」の字を添えた作例は「他に類がなく、貴重な資料である」と評され、延宝元年の本阿弥光常折紙(代百五拾貫)が附く。
華やかな側は旗本黒田家伝来の太刀で、解説は備前の鍛冶が相手を務めたとみる。身幅ほぼ尋常で元先の幅差があり、平肉よくつき、反り高く腰反り・踏張りがついて堂々とし、中鋒となる。小板目肌はよく錬れて地沸が微塵につき、乱れ映りが鮮明に立つ。焼は高く、丁子乱れ華やかに足・葉が入り、匂勝ちに小沸がつき、総じて逆がかる気味がある。焼頭の近くに飛焼を交え、匂口は締まって明るく冴える。腰樋・添樋の上に梵字、裏腰元には護摩箸を刻す。地刃は一見新味が感じられるほど頗る健体であり、「総じて見事な出来映えで菊御作の所伝は首肯し得る」と結ばれ、『土屋押形』の注記には「神君拝領黒田氏蔵」とある。大磨上無銘で菊御作に極められた刀もこの備前風に連なり、丁子に小乱れを交え、匂深く、湯走り・砂流し・金筋がかかり、帽子は乱れ込んで先小丸となる。ただし磨上のため焼落しや水影風は見られず、極めは地刃の古調さに拠る。松平家伝来の一口について本間は、極めは適切で「地刃の古調さに加えて出来もよい」と記した。
門流は残さない。菊御作の系譜は横へ、すなわちその折に院に侍した鍛冶の流派(古一文字・古青江・粟田口)へと遡り、その見極めが菊花紋・焼落し・水影とあいまって、この群の鑑定を定める。所載解説はまた、これらの作の指定の連なりを記す。菊御作には御物一口のほか、旧越前松平家・尾張徳川家・林原家伝来の重要文化財指定品があり、いずれも茎に菊紋を刻すという。
指定を受けた作は十一口を数える。重要文化財四口、皇室ゆかりの二口、重要美術品二口、特別重要刀剣二口、重要刀剣一口である。うち九口に伝来が記録され、その連なりは帝王の手に相応しい。黒田家の太刀は慶長十九年(1614)に徳川家康より黒田直綱が拝領し、江戸時代を通じて毎年、将軍家御腰物方の手入れを受けた。厳島神社の太刀は社伝に大内義隆旧蔵、毛利元就奉納と伝え、明治二十年の火災に遭った。ほかに山内家・松平家・越前松平家・九条家・皇室を経た作があり、上杉景勝由来の一口もある。所在の知られるものは厳島神社、東京・京都の両国立博物館、黒川古文化研究所などに納まる。重要文化財と皇室ゆかりの品は国の重宝として動くことがなく、私人の手に渡り得るのは特別重要刀剣・重要刀剣の三口にとどまる。後鳥羽院御自らの焼刃になる菊御作が市に現れることは、この分野で最も稀な出会いのひとつである。