元重派は、鎌倉時代末から南北朝時代にかけて備前国に興った一派で、長船元重を中心とする。年紀作は現存最古の正和五年(一三一六)紀の短刀に始まり、南北朝中期の貞治に至るおよそ半世紀に亘って続き、説明書はこの間に初・二代の存在を認める説を載せながら、その境については定説がないと併記する。一派の出自について繰り返される判断は一貫しており、すなわち本派の元重は、同じ長船にあって光忠・長光を祖とする正系からも、傍らの兼光・長義の系からも離れて立つ別系統の刀工だということである。古伝はその流れを畠田守家に求め、二代守家の子が守重、守重の子が元重と伝える。小反りの作域を含めて長船周辺に位置しながら、福岡や吉岡の丸く華やかな備前とは隔たり、角ばり逆がかる強い個性をもってその別系の出自に応える。元重に近接して重眞があり、古来初代元重の弟、あるいは一説に門人と伝えられ、本派の作域を共有してこれを南北朝へと受け継いだ。
作風の共通語法は、まず刃文に表れる。直刃調を基調として角ばる互の目を焼き、これに区側へ傾く非対称の鋸歯状の片落互の目を連れ、総体に逆がかって、刃中には逆足・葉などの働きが入る。匂口は締まりごころに小沸がつき、あるいは沈みごころとなって、細かな金筋・砂流しがかかり、帽子は乱れ込んで尖り、あるいは小丸・焼詰めとなる。なかでも焼頭が一直線上に揃った角ばる刃は最も個性的な見どころであり、表裏の物打あたりに明瞭に看取される。地鉄は板目に杢や流れ柾を交えて総じてやや肌立ち、地沸が微塵につき、地景が細かに入り、地斑を交えて、乱れ映りがしばしば鮮明に立つ。ある無銘の刀について説明書は、杢がかって肌立ったこの鍛肌を蝉の羽根と称し、元重と鑑せられる条件に数える。説明書はこれらの特色を総じて、青江気質を混在させる点に同工及び一派の見どころがあると結論づける。同じ作域の内にも差はあり、元重の鎌倉末期作は片落ち互の目を焼いて殆んど景光を見るようと評され、南北朝に入ると体配は大柄に転じて身幅広く反り浅い延文・貞治型を呈する。重眞もまた角ばった手を本流としながら、延文三年紀の在銘太刀のように、率直な丁子乱れに開いて元重風とは異なる出来をまれに示す。
伝承の上で本派を分かつのは、その見どころが鑑定の勘所にそのまま重なる点である。逆がかる直刃調の焼刃が最も近づくのは隣国備中の青江であり、説明書は粗見すれば青江に擬する作風としながらも、焼頭の揃った角ばる逆互の目と鮮明に立つ乱れ映りとによって極めは元重に帰着すると断ずる。これによって本派は長船の嫡流から明確に分かたれる。古伝書が似るとする景光に対しても、刃幅の広さ、帽子の尖り、地がねの処々ゆるんだような流れ柾や地斑に、景光らとは系統を異にする本派の個性が窺われ、重眞の無銘刀には雲類・近景の見方もあり得るとしつつ、体配と地刃の子細を見て極めは備前を動かさない。格については、江戸時代に元重が信国・法城寺国光と共に貞宗三哲の一人に数えられた一方、説明書はこれを俄かに信じ難いとし、現存作の多くはあくまで備前伝で、兼光・長義ほど相州伝を帯びるものは少ないと記す。ただし例外は実在し、島津家伝来の脇指のように地刃の沸が極めて強い作も少数知られる。来歴の録された作は伊達・佐竹・上杉・蜂須賀・細川・島津・尾張徳川・柳沢の諸家を経て皇室に及び、東京国立博物館・林原美術館・静嘉堂文庫美術館・上杉神社・大英博物館などにその作を蔵する。鮮明な映りの下に角ばり逆がかる焼刃が、南北朝備前にあって青江の気質を帯びる本派の手を、おのずから名乗っている。