神吉楽寿は、肥後金工の家系である神吉家の三代目として、文化十四年(1817年)に生まれ、明治十七年(1884年)に没した。神吉家の祖は神谷甚左衛門といい、細川忠利が肥後入国の折に細工人となったと伝えられる。寿平忠光(正忠)の時に藩命により林家の相伝を受け、春日派(林派)の作風の復活に努めた。二代目の深信は天明六年に生まれ、嘉永四年(1851年)に没しており、その作品は誠実で品格の優れた作風で、奇を衒うことが無いと評される。楽寿は深信の子であり、父と共に名工の誉れが高い。林又七の流れを汲む神吉家において、楽寿は特にその才能を発揮し、春日派の作風を継承しつつ、独自の作風を確立した。
楽寿の作風は、地鉄の鍛えが優れ、「蟇肌」という独特の変化を工夫し、表現に成功している点が特徴である。作鐔においては、茎孔の上下に特殊の打込み鏨を用いているため、二代深信、三代楽寿の作鐔は無銘であってもその識別が可能である。地鉄はよく錬れて精美であり、肥後鐔特有の紫錆でネットリとして艶がある。地面には僅かに凹凸がかった地叢が施され、雅趣がある。透かしの意匠では、蝶文を透かした「影蝶透かし」や、四方に蕨手を透かしたものがみられる。また、金象嵌を得意とし、渦巻文、葛菱文、枯木などを繊細かつ大胆に表現している。象嵌の技術は「又七の再来」といわれるほどであり、金布目象嵌、金枯木象嵌など、多様な技法を駆使している。
楽寿の作品は、初代又七を目指して精進した高尚なものとして評価されている。特に金象嵌の技術は又七に迫るほどと評され、地鉄の鍛えや意匠においても独自の境地を開いている。作風は雅味と力強さを兼ね備え、見る者を魅了する。重要刀装具に指定されている作品も多く、その技量の高さと芸術性が高く評価されていることが窺える。また、銘に「主荻昌国」と添えられた作品が複数存在することから、荻昌国という人物が楽寿の重要な支援者であり、注文主であったと推測されている。楽寿は、肥後金工史における重要な刀工の一人であり、その作品は後世にまで高く評価され、春日派の伝統を継承しつつ、独自の作風を確立した名工として、その名を残している。