則長の生涯は、行年を添えた二口の短刀によって異例の精度で定まる。文保三年(1319)紀に四十八歳、暦応三年(1340)紀に六十九歳とあり、各説明書はこれより逆算して文永九年(1272)の生まれとする。暦応元年(1338)紀の生ぶ薙刀が第三の年紀を加え、元徳年紀は光山押形に所載される。大和国尻懸の住人であり、千手院・当麻・保昌・手掻と並ぶ大和五派の一つ尻懸派について、説明書は繰り返し同じ一文で書き起こす。すなわち尻懸派は「則長を事実上の祖として栄えた」。銘鑑は父・則弘を祖と伝えるが、則弘に確実な現存作はなく、一派は子の則長の上に定まる。同銘は鎌倉末より室町時代に亘って継承され、その代別はなお未解決の問題とされる。
その手筋は大和物の中でも最も名指ししやすいものに属する。説明書の定式はまず、鎬が高く鎬幅が広い造込み、板目が流れごころとなる鍛え、直刃基調の刃文という大和物一般の枠組を述べ、次いで決め手を明文化する。「刃中に小互の目を連れて焼く点に特色」が見られるのである。ある重要刀剣の説明はこれを序列にまで高めて、大和五派の作中「最も互の目の目立つものが尻懸派の作であり、その中、最も技術の優れているものが則長」であると記す。典型作では連れた小互の目が元から先まで続き、刃縁はほつれ・喰違刃・打のけとなり、沸が厚く、物打辺では時に荒沸を交え、金筋・砂流しが頻りにかかる。帽子は直ぐに盛んに掃きかけ、小丸あるいは焼詰めごころに結び、特別重要の一口では火焔状となる。さらに静かな目印として「匂口の沈みごころの点も見のがせない」と付け加えられる。
この刃を支える地鉄は、総体に流れて柾がかる板目で、地沸が厚く、細かな地景が入り、処々肌立つ。最良の作では沸映りが鮮明に立ち、特別重要の一刀には地鉄のやや黒ずむものもある。第二十四回特別重要の太刀は、小板目がつみ、鉄色明るくよく錬れた鍛えに、刃縁に「光美しい刃沸が厚くついて明るく冴え渡り」と、同工の最上作に与えられる言葉で述べられる。鋼の強さ自体が派内の見どころでもあり、紀伊大納言頼宣の指料と伝える重美の薙刀直しは「常の尻懸より地鉄が強く、刃中の沸も強い」と特記される。
作域は明確な区分をなす。手掻包永と並んで大和物中比較的有銘作が多く、長銘は「大和則長作」「大和尻懸住則長作」「大和左近允則長作」の諸形式をとり、「初代と鑑せられるものに二字銘はない」とされる。太刀は多く磨上で、銘は茎先の棟寄りに残り、短刀は生ぶ茎の中央に長銘を切る。指定作中、在銘二十五口に対し無銘十二口である。無銘の極めには本阿弥家の極銘が伴う。象嵌銘が極めて少ないとされる光室の金象嵌、天和三年(1683)二十枚の折紙を伴う光常の金象嵌、光遜の金粉銘と朱銘、そして光室か光温の手と推される失われた寛永十二年(1635)の折紙である。定式自らが「直刃出来の作もある」と留保する作域もあり、西蓮の古極めのあった細直刃の薙刀直し、六十六歳・暦応元年紀の穏やかな生ぶ薙刀、連れた小互の目があまり看て取れない六十九歳・暦応三年紀の冠落造短刀がこれに当たる。長柄物は一派の得意とするところで、暦応元年の薙刀は銘文も資料的に貴重な生ぶのまま伝わり、他は脇指に直され、その「薙刀樋に添樋も力強く」掻かれて大和物の彫物の特色を示す。代別はなお定まらない。古来の説は尻懸を冠しない銘を初代、冠する長銘を二代以降とし、左近允銘を二代・暦応頃と読み、銘鑑は三代を応永、四代を永享とする。しかし第四十七回重要の短刀は、暦応三年・六十九歳の年紀をもちながら尻懸を冠して銘しており、説明書自身が旧説に躊躇を示し、「則長の代別について、さらなる検討を促す貴重な資料」と呼ぶ。降って室町初期には、生年六十二歳の後代が春日奉納の短刀に銘している。
説明書は彼を隣人によって位置づける。当麻に対しては、第九回特別重要の説明が引く古伝書が、尻懸はすぐ焼刃で当麻と紛れる出来であるが「当麻ほどは地つまらずしてしほ相うすく、位のおとるを以て尻懸と知べし」と説く。手掻に対しては序列が明文化され、「技術も手掻包永につぐものがある」とされた上で、相違が列挙される。「則長の方が鍛が肌立つて冴えが足りず」、刃文は互の目の乱刃が目立ち、包永が二字銘のみであるのに対し則長には長銘がある。包永が手掻にとってそうであるように、則長は尻懸にとって、一派の技術と有銘の記録の双方を担う刀工であり、直刃の枠に連れた小互の目をもって大和の他のいかなる手からも分かたれる。
藤代の極めで上作。指定を受けた作は四十六口である。うち五口は重要文化財として市場の外に保存される文化財であり、その下に特別重要刀剣六口・重要刀剣三十口、両格で三十六口が連なり、ほかに重要美術品三口がある。十二口が大名家以来の伝来を記録する。安永三年(1774)に十代将軍家治より贈られたと腰物帳に記され、後に徳川家達の有に帰した旧将軍家の太刀。元禄十一年(1698)に将軍綱吉より美濃高須藩祖・松平義行が拝領し同家に伝来した太刀。江戸期の打刀拵を伴って加賀前田家に伝来した現存稀な左近允銘の太刀。紀伊大納言頼宣の指料と伝え、後の所有者が将軍家の太刀と大小にして愛蔵した薙刀直し。毛利家旧蔵の太刀。本多中務少輔忠刻所持の金象嵌を残す一口。記録された所有者には伊達家・皇室の名も見える。現在の所在が記録されるものは、伊勢神宮、東京・京都の両国立博物館、静嘉堂文庫、黒川古文化研究所、ボストン美術館などに収まる。蒐集家にとっての算術は厳粛である。特別重要・重要の諸刀の多くは秘蔵されて市に出ず、連れた小互の目をもつ極めの刀が現れるのは時折に過ぎない。指定の在銘作は二十五口ほどで、その多くが社寺・美術館や旧家に伝わる以上、在銘の一口は真の稀品であり、年紀作はさらに稀である。